賃金と貧困の関わりは非常に密接であり、働いて収入を得ていても貧困に陥ってしまういわゆるワーキングプアが社会問題化して久しい。ワーキングプア問題に見られるように貧困に陥る原因の一つが低賃金であることは確かである。また、2000年代前半から社会・政治問題化してきた格差問題も低賃金が主な原因となっていることは言うまでもない。こういった貧困・格差問題を解消するための最も有効かつ重要な策はふつうの暮らしができる水準まで賃金を引き上げることであり、現在の日本においてそれを唯一可能にする賃金規制策が“最低賃金制度”である。しかし日本の最低賃金の引き上げ率は毎年3%程度にとどまっており、最低賃金によって個々人が考える‘ふつうの暮らし‘を維持することは難しく、言葉通り‘最低限度の生活‘を維持することがやっとというのが現状である。このような現状も明らかとなってきている中、なぜ日本では最低賃金が大幅に引き上げられないのか?
原因として、一つには中小企業からの反対が大きいこと、そして一つには最低賃金引き上げによる効果、役割に関するデータ(エビデンス)の不足や曖昧さにあると考えられる。専門家の間でも最低賃金の効果に関する議論にいまだ決着は着いておらず、実証的な研究も十分に行われてきたとは言い難い。そもそも日本国内では最低賃金引き上げ率が微々たるものであり、その効果を十分に検証するには限界があると思われる。このことから、日本において最低賃金引き上げを進めていくためには、各国様々な実証実験結果の事例からエビデンスを収集し、最低賃金が持つ効果に対する曖昧さを払拭し、改めて最低賃金が持つ効果や役割を再確認していく必要がある。そこで注目すべき事例が韓国である。
日本の働き方改革が労働力不足の解消や生産性の向上を主な目標にしているのに対して、文在寅政権下において日本より一足早く働き方改革が始まった韓国では、低所得者の所得増加と雇用創出を目指している。その改革の柱として最低賃金の引き上げが進められ、2018年には16.4%という大幅な引き上げが行われた。しかし、日本ではこの韓国の大幅な引き上げ政策に関しては一貫して引き上げ後多大な雇用喪失を引き起こした失敗政策として評価されている。韓国国内においても同様であり、一部の経済学者やメディアから最低賃金引き上げが雇用喪失や経済的不安をもたらすとする予測や検証が次々と発表され、結局政府も継続的な引き上げを断念せざるを得なかった。
ここで疑問を呈したいのは、果たして本当に韓国の最低賃金引き上げ政策は失敗だったのか?ということである。この疑問を解消するためまず引き上げ前後のマクロ経済指標の検証、そして韓国国内の2017年から2018年にかけて行われた最低賃金引き上げの効果に関して実証的な検証を行った文献・研究17件を対象にレビューし再考察してみた。
結論から述べると、韓国の引き上げ政策は失敗に終わったとは言い難い、ということが見えてきた。韓国国内で最低賃金引き上げに関して最も大きな争点となっているのが“最低賃金引き上げが雇用数に影響するのか?”ということである。しかし、最低賃金引き上げが雇用に与える影響に関して、実証的に分析を行ったいくつかの研究の結果からも、いまだ負の影響を及ぼすか否かの結論には至っていないことがわかる。また、もし最低賃金引き上げによって雇用数が減少した後に失業率増加という現象が起こっているとすれば問題であるが、そのようなデータは示されていない。韓国の失業率は2014年以降一貫して上昇しており、最低賃金の大幅な引き上げと失業率の変動には関連がないことが示唆される。
(韓国統計庁統計ポータルデータより作成)
また、その他大幅な引き上げが行われた2017年から2018年近辺を含むマクロ経済指標を見てもGDPは2018年以降も一貫して上昇傾向、物価変動指数は2015年以降一貫して上昇していたが、2018年から2019年はむしろ下落傾向が見られた。経済成長率は2017年から2018年にかけて減少傾向が見られるが、2012年からの推移を見ると一貫して2%台後半から3%台前半の成長率となっている。
また成長率低迷の背景には2018年頃からの輸出金額(特に輸出金額の20%以上を占めている半導体)の大幅な減少が経済成長率に負の影響を与えていることが示唆されている。以上のことから最低賃金をある程度引き上げたとしてもマクロに見た雇用動向、経済動向に大きな影響を与えるとは考えにくい。
しかしそれよりもさらに重要なこと、そしてここで最も述べたいことは、最低賃金が持つ役割を再考察する必要があるということである。Golan, Perloff and Wu (※1)は、「最低賃金に関する膨大な研究の大部分と公的な議論の大部分は、所得の再分配における役割としてではなく、その意図しない雇用効果と賃金への影響に焦点を当ててきた」と述べている。Josh Norman(※2)も同様に「最低賃金に関する政策論争において、潜在的な失業率は重要であるが、最低賃金の主な目的は雇用を減らすことではなく、むしろ高賃金労働者から低賃金労働者への収益の再分配であることを理解しなければならない」と主張している。つまり、最低賃金引き上げに関するこれまでの実証的研究を概観した結果、最低賃金政策が雇用動向にどのように影響を与えるのか、に関する議論には限界があると思われる。また、経済成長に関する影響においてもこのような短期間での効果測定ではなく、長期的に見ていかなければならない問題であると言える。今後は最低賃金(引き上げ)制度が本来目指すべき役割である社会保障、特に格差や貧困の解消にどの程度寄与できているのか、という視点の変換が必要である。そういった視点で韓国の最低賃金引き上げに関する文献を改めて検証してみると、最低賃金の引き上げが“低賃金階層の縮小”、“賃金格差の解消(高/低賃金間、男女間)”に正の影響を与えること、そして長期的には生産性の向上に影響を与える可能性が明らかとなっている。また、統計的なデータからも最低賃金の大幅な引き上げ時期に労働所得分配率が顕著に上昇していることがわかる。
労働所得分配率の上昇は労働生産性の向上や所得格差の縮小に繋がる。これらの実証的研究結果及びマクロ指標の検証結果から、最低賃金を引き上げることによって少なくとも格差や貧困の解消が促されることは確かなことと言えるであろう。今後は最低賃金引き上げによる雇用や経済への影響といった不確かであいまいな議論を進めていくよりも、最低賃金が持つ貧困・格差是正といった効果・役割により着目した議論が展開されていくべきであると考える。
(※1)「Welfare Effects of Minimum Wage and Other Government Policies」(Amos Golan, Feffrey M. Perloff, and Ximing Wu, 2001)
(※2)「Effects of Minimum Wage Increases on Income Distribution」(Josh Norman, 2016)
(統計資料:韓国統計庁)
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