私の意思は私のものか? 柔らかく私を支配する「ナッジ」

岡山の秋もだいぶ深まり、澄み切った夜気に月が冴え渡る季節となりました。秋の夜長は溜まっていた仕事を片付けるのにもってこいです。

私の焼き物収集

 

私が夜半にひとりでコンピューターに向かっていると、突然アマゾンの「おすすめ」が目に入ってきます。まるで私の好みを知り尽くしたかのようにツボを心得たそのおすすめに、私はおもわず「ポチッ」とクリックをしてしまいます。アマゾンは妻さえ知らないような私の個人情報を熟知しており、私の嗜好も可処分所得も知り尽くしているため、「にいちゃん、いい出物があるんだがねえ」と夜な夜な誘惑してくるのです。購入するかしないかは私が決定するのですから、私は自律性を持って、自由意志で購入を決定していると確信するのは、自然な成り行きです。自由を謳歌することのできる幸せに浸りながら、こうして私の部屋には妻からガラクタ呼ばわりされる陶器が、次第に増えていくのです。

ナッジ

 

シカゴ大学教授リチャード・セイラーはノーベル経済学賞を受賞した行動経済学者です。彼はキャス・サンスティーンと共に「ナッジ」という概念を打ち出しました。「ナッジ」とは直訳すると「ひじで軽く突く」という意味です。 行動経済学や行動科学分野において、人々が強制によってではなく自発的に望ましい行動を選択するよう促す仕掛けや手法を示す用語として用いられています。「ナッジ」の例を見てみましょう。

アムステルダムのハエ

 

ナッジの成功例として名高い実験があります。アムステルダムのスキポール空港は男子トイレの床の清掃費が高くついていました。そこで、小便器の内側に一匹のハエの絵が描かれたのです。その結果、なんと清掃費は8割も減少したのです。スキポール空港の場合、「人は的が有ると、そこに狙いを定める」という分析に基づいて、小便器に工夫を加えたのです。そしてハエの絵は、世界中に拡散しました。現在、各国政府は公共政策にナッジをどんどん取り入れています。では、どのような形で私たちは「ナッジ」に影響されているのでしょうか?

1) デフォルト設定

 

ヨーロッパには、市民の臓器提供希望者の割合が高い国と低い国があります。低い国(デンマーク4%,ドイツ12%,イギリス17%等)には冷たい人が多く、高い国(ベルギー,フランス,オーストリア等は90%以上)には慈悲心を持つ人が多いという訳ではないでしょう。実は、高い国では初期設定が臓器提供に「同意」で、「非同意」も選ぶことができます。低い国では初期設定が「非同意」で、「同意」も選べるからに過ぎないと考えられています。多くの人は初期設定を変えないため、臓器提供が多いと考えられているのです。わが国も初期設定は「非同意」で、臓器提供希望者は少ないのです。ナッジの考え方を利用して、フランスは、初期設定を「同意」に変更しました。イギリスは近々、初期設定を「同意」に変える計画であると伝えられています。

2) フィードバック


フィードバックとは、特定の行動を起こしたらすぐに反応が返ってくる仕組みを作ることで、自発的に行動を起こすよう誘導するテクニックを指します。例を挙げると、自動車のシートベルトを閉めずにエンジンをかけるとランプや音で警告する仕組みです。この警告を受けた後はシートベルトを締めるようになるのです。

3) インセンティブ

 

インセンティブとは、特定の行動をとった際にメリットを与えることで、再度その行動を促すテクニックを意味します。例えば、航空会社のマイレージなどはインセンティブのひとつです。

4) 選択肢の構造化

 

選択肢の構造化とは、複雑な選択肢を分かりやすくすることで、特定の選択肢に導くテクニックです。例えば、ファミリーレストランのメニューには「店長オススメ」や「期間限定メニュー」といった文字が掲載されているでしょう。こういった案内があることで、大量にあるメニューから選ぶべきメニューが絞られ、消費者にとって選択しやすくなります。

5) ゴールの可視化

 

とって欲しい行動のゴールと、ゴールまでの距離を可視化する。あと一息でゴールド会員です、などと知らせるのは選択を促進します。

非合理的経済人

 

従来の経済学では自分の利益や幸福を最大化するために最適な選択をする「合理的経済人」の存在を前提としていました。しかしながら、現実には私たちの選択能力や情報収集能力、理解力には限界があり、度々不利益な選択をしてしまうことが多いのです。このような時に少しだけ選択の手助けをしてみたらどうか、これが「ナッジ」です。強制したり、選択の自由を制限するのではなく、選択の可能性を残しつつ誰もが選びそうで幸せに結び付きそうな物を選びやすいように、少し傾きを提示するのが「ナッジ」なのです。ですから選択する人はその傾きも意識することはなく、自分の自由意志で自律的に選択した、と確信してしまうのです。私の陶器収集のように‥。
参照:「人間は合理的に不合理な意思決定をする」松岡順治

医療とナッジ

 

甲状腺がんや前立腺がんは、がんであっても死亡に結びつくことが他のがんに比べて少ないことが知られています(参照:「無実のがん」池井戸高)。しかし細胞診でがんであると分かった場合には、患者さんの立場では「一刻も早い手術」という選択をすることが当然です。私自身は説明書には必ず「手術をしない」という選択肢を入れていました。「手術をしない」という選択はエビデンスを知らない患者さんの立場ではありえないことから、そもそもこのような選択肢が存在することが考えられないのです。そこからお話を始めると、「経過観察で」とおっしゃる方が高齢者に増えてきました。

 

病院は治療をするところです。入院イコール治療ですので、入院中に無治療の選択をすることはありえません。患者さんにとって病院は積極的治療をしないという選択が取りにくい場所なのです。患者さんのQOLを考えると、積極的治療をしないで症状コントロールを目指す方が良い方がいらっしゃいます。このような時、治療方針をお話するのは外来で、できれば在宅で充分なお話をして選択肢を提示する方が良い選択ができるのではないかと考えます。

ナッジは個人の選択・行動に対し、無意識のうちに先入観を与え、選択の自由を阻害する危険性も持ち合わせています。AIが発達し、Deep Learningが進み我々の個人情報が誰かに管理され、それを元にある方向に選択を誘導するようになる可能性が大であります。我々はそれをただ便利だからと易々諾諾と受入れるのは我々の自由意志なのでしょうか?私たちの嗜好を知り尽くしたAIが提供する選択の連続の中で、「いいじゃないの幸せならば」とAIの誘導する選択世界の中で生きる我々は私たちが思っているほど自律的な意思を持ちえていないのではないでしょうか?

ポチッとクリックしながら色々なことを考えた秋の夜長です。

「人間の意思は本当に存在するのか、橋本俊明」も合わせてお読みください。

岡山大学大学院ヘルスシステム統合科学研究科教授松岡 順治
岡山大学大学院医学研究科卒業 米国留学を経て消化器外科、乳腺内分泌外科を専攻。2009年岡山大学大学院医歯薬学総合研究科、緩和医療学講座教授、第17回日本緩和医療学会学術大会長。現在岡山大学病院緩和支持医療科診療科長、岡山大学大学院保健学研究科教授 緩和医療、高齢者医療、介護、がん治療の分野で研究、臨床、教育を行っている。緩和医療を岡山県に広める野の花プロジェクトを主宰している。
岡山大学大学院医学研究科卒業 米国留学を経て消化器外科、乳腺内分泌外科を専攻。2009年岡山大学大学院医歯薬学総合研究科、緩和医療学講座教授、第17回日本緩和医療学会学術大会長。現在岡山大学病院緩和支持医療科診療科長、岡山大学大学院保健学研究科教授 緩和医療、高齢者医療、介護、がん治療の分野で研究、臨床、教育を行っている。緩和医療を岡山県に広める野の花プロジェクトを主宰している。
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