人間は「意思」を持って行動し自分自身の環境に適合させて、やりたいことをする。あるいは、社会に「意思」を持って貢献していると考えている。しかし、人間の「意思」がどれ程のものかについては、哲学者や心理学者、さらに最近では脳科学者などがかなりの疑問を持っている。
古来、人間は自分では制御できないことに対しては、「神のなせる業」とか「宿命」とかと考え、人間の「意思」が及ばない場合を多く設定した。しかし、ニーチェによって「神が死んだ」のちには、より強く人間の意思がすべてを決めていると考えるようになったのだ。
科学が発達し知識範囲が拡大されると、自然の現象も人間は理解出来るようになり、災害も防ぐことが出来る(べきである)と考えるようになる。自然について人間が知る範囲はいまだ少なく、人間の意思は、自然すべてに到底及ぶものではないにもかかわらず、である。
動物が意思を持っているかどうかは、判断が分かれるところだ。当然ながら、動物を好きな人は意思を持つことを肯定し、動物に縁がない人は意思を持たないと考えるだろう(そのように考えないと牛肉や豚肉を日常的に食べることが難しくなる)。少し考えると分かることであるが、昆虫と犬では、人間以外の同じ生物と言っても違いがあることは分かる。
犬は意思を持っていると言っても反対は少ないだろう。ではこの違いはどこにあるのか? その違いはエピソード記憶の大きさにある。生物はどの様なものであろうと、生存と繁殖の意思を持っている。従って、意識的かどうかは、その意思を認識しているかどうかにかかっている。いわゆる本能的な行動とは、自分の行動を認識していない状態である。意思を認識するためにはエピソード記憶が必要だ。
ところで、意思を持つことは自分の行動を制御する事だと感じるだろう。では、果たして人間の行動がどの程度自分の意思の基に行われているだろうか。よく考えると、大部分の行動は意思無しで行われていることが分かる。例えば、食事を摂る動作は通常は意識をしないし、歩くための筋肉の力加減も意識しているわけではない。また、道を歩いている時に信号で立ち止まることも、意識しないで出来るようだ。その上、朝起きてから職場に行くまでも、ほとんど無意識の状態(覚醒はしているが、次に何をすると言う意思を持つことなく)であっても、行動は可能である。この様に考えると、通常の行動の内の90%以上は、特に意思を働かさなくてもいいことが分かる。
では、意思を働かすことは、人間など高度な動物がどの様に行っているのかである。意思を最も尊重したのは、カントだろう。「君の意志の格率(ルール)が常に普遍的な立法の原理として妥当(適応)しうるように行為せよ」は定言命法の有名な言葉であるが、同時に人間の意思を尊重しているのだ。しかし、一方で、動物と同じように、人間は環境からの刺激に沿って行動する生き物に過ぎないとの意見もある。人間の行動には、その前に行動を起こす誘因があり、それによって行動しているに過ぎないのかもしれない。
1980年代に、ベンジャミン・リベットにより、大きな発見が報告された。精密な観察方法を用いたうえで、手を曲げるなどの意思をあらわす350m秒(0.35秒)前に、大脳皮質に準備電位が観察される。この事は何を示すのだろうか? それは、意思を示す以前に既に脳はその意思に向けて活動を開始していることを意味している。この事を現代人は想像することが困難であるが、リベットは何回も繰り返し同様な結果を得ているし、その実験装置を使った他の科学者も同様の結果を確認している。実験結果から言えることは、人間が何かをしようとする場合、それは、いわゆる「自由意志」によるものでなく、それまでの個人の歴史、その個人周囲の環境などによってあらかじめ決定されているということを意味している。例えば、あなたがシャワーをする前に、手をシャワーにつけて温度を見ることは、意思によって行っているようだが、実は以前の経験、つまり熱いお湯に驚いたことがその行動を引き起こし、さらには、湯が出てからしばらくして出てくる湯に手をかざすことも、あらかじめ決定されていると言うのだ。
同様にリベットは次のような現象も確認している。指先で触る質感は、指先への触覚が単純に脳に伝わり、指先に触った感触を得るのではない。その信号を受けた脳は触感を作り出している。指先が質感を感じるように「思える」のは、脳が作り出す錯覚である。なぜなら、指先がものを感じて、それを大脳皮質が「意識する」ためには、0.5秒の時間がかかるが、指先は、触ったのち速やかにそれを感じることが出来るように0.5秒触覚を先行させる。これは、先行して触る感じを「脳」が表す錯覚だ。
この様な考えに沿うと、人間の「自由意志」はなく、人間個人が持っている特質、歴史、環境によってその行動が決定されると考えても良い。しかし、人間は「自由意志」を持って行動していると「確信」している。「自由意志」こそが人間の本質を決めるものであり、人間性そのものであると考えるのだ。
この「自由意志」についての「確信」が揺らぐと、人間の倫理観そのものが揺さぶられ、AIが意思を代用しても良いと考えるかもしれない。しかし、そうではなく、「自由意志」は、その瞬間には存在せず、それまでの人間の行動や環境から決まるとしても、苦しい経験や選択を経たのちの自分自身での意思決定は、「自由意志」と称しても良いのではなかろうか。
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