ニセコからのリポート「ニセコで熊との共存を考える話②」

2025年10月のある日。
「すごいです!今年は熊スプレーレンタルの件数が激増しています!」とスタッフに言われ、私は頷いた。

以前、こちらの記事でも紹介して頂いたあの熊撃退スプレーのレンタル事業が、今年は貸出件数が急増しているのだ。と言っても小さな会社の小さな社会貢献事業である。決して儲かり過ぎて困っているという類の話ではない。初期費用を回収してもなおレンタル需要が拡大しているので、さらに入荷して貸出すスプレーの本数を倍増したがそれでも回転が続いている、という程度のささやかな現象である。本年度は10月現在までの貸出実績で、一昨年度比でなんと1025%増、昨年度比でも171%増となっている。ちなみに町内の学校登山行事などに対する無償協力貸出しについては実績件数に含まれていない。数年前に私のひょんな思い付きからニセコ駅で始めたスプレーのレンタル事業だったが、よもやここまで反響があるとは思いもよらなかった。それにしてもこれほどまでレンタル需要が急増した背景には何があるのか。

このところ北海道に限らず全国的に熊による人への被害が拡大している。中には信じられないような被害状況もあるようで、市街地での目撃情報はおろかスーパーや住宅の中にまで侵入してきて市民生活を脅かしているような有様だ。こうした状況から熊との遭遇に対する備えとして注目されてきているのが熊撃退スプレーである。スプレーの効果を疑問視するような声も一部にはあるようだが、その効果測定の方法については、私の持論を本稿後半で紹介させて頂きたいと思う。

夏シーズン本番を迎えると、北海道は道内外からの観光来訪者が増える。ニセコでは、来訪者の主たる目的が自然体験や野外活動だ。道外からニセコへ訪れて自然を体験する際に考えられるリスクの中に熊対策が浮上するのは当然なのだ。しかし、来訪者が旅行前に撃退スプレーを購入していたとしても、航空機内に持ち込めないという問題が出てくる。手荷物はもちろん、預け入れ荷物としてもNGなのだ。以前であれば「ニセコで熊スプレーを買えるところはありますか」といった問い合わせが多くあったのだが、道外からの来訪者は先述のとおり航空機で持って帰れないこともあってか買うまでには至らず、レンタル事業が静かに注目されてきた、というのが今年の貸出件数増加の背景でもある。それでも道内在住の方やフェリー利用で車ごと来道する方々のニーズはあるので、ニセコで取り扱うショップでも入荷販売が増えてきているのは歓迎すべき展開だ。

ただ、貸出件数が過去最高と聞くと熊の出没や被害が増えているように思われてしまうかもしれないが、冷静に見てみると、ニセコでの人的被害は発生していない。被害どころか遭遇してスプレーを噴射した事例も皆無である。私の周りでも肌感覚としては特に変わった様子はない。だが、「遠くに熊が見えた気がする」「糞や足跡を見た」という目撃情報が、関係機関に報告されているのも事実なのだ。本当の生息状況はキムンカムイ(山の神)のみぞ知るところとなっている。

ニセコ駅では熊撃退スプレーを貸し出す際に正しい使い方を理解してもらう取り組みを徹底している。それは、「このスプレーは正しく使えば有効な備えとして機能する。しかし、使う側の理解が不十分だと何の役にも立たないどころか、逆に己の身を危険に晒してしまう場合もある。」ということを啓蒙するためだ。今年の現象として過去最多の貸出件数を記録しているが、借り手の誰一人として自身の行動予定をキャンセルしない傾向が見られるのも特筆すべき点だ。つまりこれは、スプレーが売り切れて借りられなかったら登山計画は見合わせるつもりだった、という人が多くいたことを示唆している。

そして、繰り返しになるが今まで利用者の誰一人として一度も熊に遭遇しておらず、スプレーを噴射した事例もない、ということだ。これは一つの確かな事実なのである。この事実を知りながらもなお、レンタル料を支払い、保証金を預けてでもスプレーを借りようとする利用者の行動意識は皆一様に高い。そこには例外なく「まず熊に出会わないようにする」という慎重な行動が徹底されており、そのことが遭遇回避の理由となっていることは間違いない。正しく恐れる上ではまさにここが肝心なところとなるのだ。


少し遡る2025年5月のこと。ついに国産の熊撃退スプレーが登場した時、私はスタッフに興奮してそのことを伝えたのだった。ウチの会社でもすぐに入荷してレンタルのラインナップに加えてくれ、と。徳島の企業から満を持して、熊撃退の新兵器、国産スプレーが開発されたのだ。誤噴射を防ぐための円筒形のキャップも工夫されていて、成分も噴射時間も噴射距離もアメリカ製のものに決して劣らない。そして値段もお手頃である。国産の熊撃退スプレーが開発されたことで、これからは日本全国の熊の生息地域近郊で生活する人に一本ずつ常備してもらう時代となっても良いのではないかと、個人的には本気で思っている。それは私自身、こういう持論・仮説を持っているからだ。

たとえば、地球温暖化などにより急激に気候変動が進み、山では熊の食糧となるドングリなどが不作となり、食べ物を求めて人里へ出没するようになった、と仮定する。必然的に人との接触機会が増えるが、その時に人が護身用に熊スプレーで撃退したら「ヒトに近づくと恐ろしい毒を吐く」と熊が学習したとする。そうして山に退散した熊はヒトを恐れて人里に近づかなくなり、山では食料不足により自然と個体数を減らして、めでたし、めでたし、となる。この三段論法は以前の記事でも触れた私の妄想であるが、これは高齢化によりハンターの方々の数が減っていく現実を前に、猟銃や箱罠だけに頼った駆除では限界がくるのではないかという懸念があるからなのだ。駆除作業における対価報酬もだが人的資源や法整備も全く充分ではない状況で「殺したらかわいそう」などという苦情にも対応していては、抜本的な解決は難しいままだろう。殺さずに遠ざけて個体数を自然に減らすためにも熊撃退スプレーは有効な一手になるのではないか、というのが私の仮説である。

披露するのも恥ずかしながら、私の中では既にこの仮説を検証するための具体的な妄想まで膨らんでいる。冒頭で触れたスプレーの効果についてもこの検証ではっきりするはずだ。仮にこの検証プロジェクトを「熊撃退スプレー式学習法」と名付けたい。この手法は既にある「懲らしめ放獣(学習放獣)」の一種に分類されると思うのだが、私が不勉強なだけなのかスプレーによる実証例と効果をまだ身近で見聞きしていないので、僭越ながら素人の思い付きアイデアとしてここに書き留めておきたいと思う。

まず、熊捕獲用の箱罠に捕らえられた熊を麻酔で眠らせた後にGPS付きの識別タグを装着する。麻酔から覚めたら熊と目を合わせた状態で、ヒトが撃退スプレーを構えるところを見せてから箱罠の中にいる個体のその目と鼻に向かって噴射する。この時に実行者はマスクとゴーグルを装着することを忘れてはならない。あえて「熊と目を合わせて・・・」や「熊に構えるところを見せて・・・」としているのは熊の高い学習能力に期待しているからだ。

激しくダメージを与えたその後に実行者は避難し、安全な位置から遠隔操作により箱罠の扉を開けて熊を山に開放する。その後、その個体の位置情報を長期的に追跡し、行動分析をして検証の効果を測定する。酷い目にあわされた熊が学習して里山やヒトに近づかない傾向が動物行動学的に確認されたら、効果が認められたとみなし仮説が立証される、というものだ。いや、既にこんな私のような素人が思いつく程度の検証計画はとっくに検討・実施されているのかもしれない。あるいはやはり倫理的に野生動物保護の観点から認められない規則でもあって実現しないのか。

余談だが、スプレーの本来の使い方においてはこうした箱罠に捕らえられた個体に確実に噴射するのが最も安全で効果を発揮する使用方法なのではないか、という妄想に最近とりつかれ始めている。それは、山道などでバッタリ遭遇し慌ててスプレーを構えて噴射しても、風向きやその人の精神的動揺具合により行動の正確性を欠いた場合にはスプレーの効果が発揮されないことも往々にしてあるからだ。スプレーの効果を疑問視する声もこのあたりの不確実性を指摘している部分もあるだろう。

早急に解決すべき課題の重要なポイントは、熊がヒトを恐れるようになってヒトの生活圏に出没しないようにすることである。熊に遺伝子レベルで恐怖心を植え付けられれば「ヒトに近づくのは危険」として本能的な警戒心が子々孫々まで継承されて行くのではないか。そして、ヒトが熊に接触する度にスプレーの恐怖を学習させるためには、まず一般市民が一本ずつスプレーを携行する必要がある。ひょっとしたら熊被害多発地域の自治体が検討するべき対策は各戸へのスプレー頒布と、行動時のスプレー必携と使用上の心得を啓蒙していく取組みになってくるのかもしれない。

私の妄想のような検証が全国のどこかで実現したならば、もしかしたら数年後には「熊撃退スプレー式学習法」の実証により熊を山奥へ封じこめることができたという成功事例が出てくるかもしれない。そのKPIは地域における熊の出没回数と生息数と被害件数の数値で示されるはずである。実証の効果により熊がヒトを恐れるようになり、万が一遭遇したとしてもヒトがスプレーを構えるしぐさを見せるだけで、噴射せずとも警戒し退散する学習能力の高い個体も出てくるのではないだろうか。そうやって互いの生活圏が自然に隔離され、やがてヒトと熊が共存できる安心な社会がこれから実現することを心から願ってやまない。

ニセコ在住下田 伸一
1975年東京生まれ。就職氷河期世代で日本からの脱出を決意し海外渡航したが、日本の良さに気付き帰国。
2002年より二セコ町に移住し現在はアウトドア会社の経営とニセコリゾート観光協会の代表も務める。
趣味はスノースポーツ、アウトドア活動全般、読書、エッセイ執筆、犬の散歩
日本の社会問題では人口減少問題、地域創生、教育問題などに関心を持つ。妻、長男、次男、長女の5人家族。
1975年東京生まれ。就職氷河期世代で日本からの脱出を決意し海外渡航したが、日本の良さに気付き帰国。
2002年より二セコ町に移住し現在はアウトドア会社の経営とニセコリゾート観光協会の代表も務める。
趣味はスノースポーツ、アウトドア活動全般、読書、エッセイ執筆、犬の散歩
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