前回「知らずにいることは幸せか、罪か」を書きました。己が歳を重ね、治療する側からされる側へと立場が変わってきており、そもそも「知らずにいること」ができるのは若くて元気な時期であることに加えて、何%かの奇跡的な幸運があってのことだと気付かされています。このことは、誰でも同じ感想を持たれるのではないでしょうか。要は、時間の経過とともに、少しずつではあっても否応なく「知る」あるいは「知らされる」ことになるわけです。古来、人はこれを「経験を積む」とか「知識が増す」と言って納得してきたのだろうと思います。まさに、人生とは良い事ばかりではないと「知ること」になり、それもまた「年の功」の一部、こうして「酸いも甘いも噛み分ける」ことができる「古老」となっていくようです。
さて、今回はそうした経験をすることで「知ること」になった問題について書きます。このことは、これまでご高齢の方の治療や介護を通して、「そうなのだろう」と思いつつ、患者さんやご家族に説明してきたことではありましたが、まさに自分で経験することになり、「やっぱりそうなんだ」と確認できたことです。
その一つがタイトルにした「体力と食事」です。一般には、体力をつける、あるいは体力維持のために食事をするということになります。しかし、実は食事をすること自体も、一定の体力があってできる事であるようです。食べるのにもそれなりの体力が必要であり、体力がないと食べることもままならないということになります。
飢餓状態のところに突然大量の栄養を摂取すると、電解質異常やビタミン欠乏症などの合併症を起こし死亡することがあります(リフィーディング症候群といいます)。もちろん、この場合には大量に食べるだけの体力があったという前提ですが、実際に体力が低下していると、十分な量の食事を摂ること自体が難しくなります。こうした場合は、まず点滴などで体調を整えながらゆっくりと経口摂取を開始し、体力の回復を待ち、食事の内容を徐々に増やしていきます。どんなご馳走であれ、栄養がある食べ物であれ、自分で咀嚼し飲み込み、栄養分を吸収し、利用するだけの体力がなければならないということが基本的事実のようです。
この「食事」の他に、終末期にかかわらず体力が落ちてくると上手くできなくなることがあります。それは、「排泄(トイレ)」と「入浴」です。
「排泄」については、食べれば「出す」ことが必要になるわけで、食べることと表裏一体、まさに生命を維持するうえで必須の行為ということになります。この「排泄」、簡単に想像できると思いますが、それなりの姿勢を取り、なおかつ一定の時間その姿勢を保ちつつ、集中しなければなりません。そして、「出す」にあたっては、それなりの「力」も必要で、逆に、それを「我慢する」にも体力が必要ということになります。さらに、済んだら済んだで、きちんと後始末をして、自らの居住まいを整えなければなりません。体力が落ちてきてできなくなることで、一番情けないのがこの「排泄」かもしれません。
次に「入浴」ですが、先ずは服を脱がなければなりません。極端な場合には、この時点で「ヒートショック」といったリスクがあるわけです。そのため、単に風呂に入るからといっても環境の準備が必要であり、温度管理も含めて自分の身体を動かせるだけの体力が必要となります。また、最近はシャワーだけという施設も増えてはいますが、日本人の常で、やはり湯船に入りたいものです。
さて、ここからが問題になります。湯船に入るまでは良いのですが、「湯から出る」「風呂から上がる」には、(水の抵抗も馬鹿にできず)それなりの体力が必要です。もちろん、長湯をしてしまい、のぼせたり血圧が下がったり上がったりすると、自力での「脱出」は困難になってきます。最近のお風呂には、こうしたことを想定してか、「呼び出し」ボタンが付いているようですが、情けないというべきか有難いというべきか、身につまされる設備ではあります。
この「入浴には体力が必要」ということですが、何度か患者さんで該当した方がいました。『旦那さんが機嫌よくお風呂に入っていると思いテレビを観ていたところ、なかなか出てくる気配がしない。見に行くと、湯船に浸かって亡くなっていた』という事案です。この方は、何年か前から「衰弱」が進んでおられ、食事も満足に摂れないでいました(それだけ体力が落ちていたということです)ので、時々、入院して点滴などで治療をしていた方でした。事が事だけに、警察が絡む検視(※1)となり、私に問い合わせの電話があり判ったことでした。どこかの時点で出ようとしたにも関わらず、声を出すことができないまま、力が抜けて沈んでいかれたのでしょうか。あるいは、気持ちの良さにウトウトしてそのまま天に召されたのでしょうか。「好きな風呂で亡くなったのが、せめてもの慰めです」という奥様の言葉に救われた気はしましたが、「苦しまずに逝かれたのならよいが」と想うしかありませんでした。
また、検視が終わったところで検死(※2)に呼ばれたことがありました。『足腰が弱っていた方が、お風呂で溺死された』という事案でした。これも、「好きなお風呂で」とはいえ、挨拶抜きでの旅立ちは少し寂しいものがあり、遺された側にも痛恨の想いが残ることになるようで、なんとも辛いことです。
このように、「入浴」では「体力がないから湯船から出られない」ということだけで済まないことになるわけで、「排泄」の後始末どころではないリスクが隠れていると言わねばなりません。高齢者がおられるご家庭では、注意が必要です。
ここまで読んでいただいた皆様方の体力は大丈夫でしょうか。テレビで宣伝されるようなサプリメントまでは要りませんが、「食事」、「排泄(トイレ)」、そして「入浴」を最期まで自分でできるように、体力を維持していきたいものです。それが難しいのですが。そのためにも、バランスの取れた食事に始まり、食べた後には良く排泄し、ゆったりと入浴することで一日の疲れを取るといった、リズムのある生活を心がけたいものではあります。
そして、もう一つ。ここまで書いてきて、「睡眠を取る」ことにも体力がいるのかもしれないと考えています。しかし「永眠」までいけば、体力も要らないという話で落ち着くのでしょうか。そうしてみると、「体力」こそが「生存の証」ということになりそうです。
※1 検視:警察の鑑識課の方が行うもの。死に至った状況を見分し、事故か病気か、事件(犯罪)性の有無などを検討するものです。
※2 検死:医者が行うもの。「死んでいる」ことを確認し、その原因を検視の内容と突き合わせて判断していく作業。こうして「死体検案書」(「死亡診断書」と同じ形式ですが、使わないほうを二重線で消して使用します)を作成します。死亡診断書は医師と歯科医師共に書くことができますが、死体検案書は医師しか書けません。
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