終末期を考える-知らないことは「幸せ」なのか、「罪」なのか-

最近の事ですが、私の身近な方のお子さんに病気が見つかったとお聞きすることがありました。私の職業をご存じだったので話してくださったのでしょう。入院して治療を受ければ元気になれるということで安心しました。恐らく、この方もそうした安心が得られたが故に、私に打ち明ける気になられたのだろうと思います。同時に、それまでの不安な時間を想像しました。医者という仕事をしていながら、卒業してから随分な時間が経ってしまい、他の科、特にお話のあった小児科の最新情報に疎くなっており、お役に立ちそうなアドバイスもできないままで申し訳ないことでした。

その方のお話をお聞きしてから、今一度自分の周りを眺め直すことにしています。そのお話とは、「子どもが病気になって初めて、同僚や仕事先の方々に同じような経験をされている、あるいは、されていた方があったと知ることになりました」というものです。決して良い話ではないだけに、そうした病気と関係のない方には相談も事情を話すこともしない(できない)わけです。「自分も今回の経験をしなければ、他の方々のそうしたご苦労を知らないままに、ある意味、『能天気に接し続けていたのではなかったか』と気付かされた」というのです。このことから、世間一般の生活の中では、結構「知らぬが仏」で時間が過ぎていっているのではないかと知ることになりました。と同時に、(医者という職業柄、そうした方々ばかり見ているはずなのに)いわゆる不幸な目に遭いながらも、寄り添いながら頑張って生きている方々が結構な数でおられると再確認することになりました。

確かに、自分や家族の嫌なこと、とくに病気のことでは他人に言いたくはないでしょう。よほど親しい人であっても無用な心配や配慮を強いることにならないかという想いから、言わないでいることになるのが「普通」の事ではないでしょうか。その上で、表面上は何事もないかのように振る舞うことになるのですから、経験しなければわからないというしかないことになります。

このことは、私が書いている「終末期」にも当てはまるのではないかと教えられた気がします。「子ども」を「歳を重ねた親」や「兄弟姉妹」に置き換えれば、同じことが言えそうです。というよりも、「親」や「兄弟姉妹」は高齢ですから、むしろそうした他人には言いにくい事、言いたくない事が多い可能性が高いといえそうです。

先のお子さんのことを話してくださった方は、そうなってみて初めて聞かされることばかりという驚きと共に、「そういうこともあるけれども、必ず良くなるよ」と励まされる事ばかりで、かえって恐縮し頭の下がる想いだったそうです。この話をお聞きして、こちらも救われた気がしたことではありましたが、このことも「終末期」にもそのまま当てはまることではないでしょうか。

さて、医者という仕事をし、「終末期」を云々している自分はどうなのか。当然、いろいろな病気を診察し治療するわけです(ということは、日常的に人様の「不幸」を見ていることになるのでしょう)が、そうだからといって、患者さんたちの痛みや苦しみを理解するために同じ病気になるわけにもいきません。より良い医療を目指せば目指すほど、こちらは健康でいなければならないわけで、大いなる「矛盾」に突き当たることになってきます。幸い、健康で歳を重ねてこられたことで疾患を持つ方々への理解は(医師としての立場からですが)深められました。自らもまた歳を重ねただけに衰えや疾患に出会うことになったことで、「実体験」としての理解を深めることができてきているのではないかと感じています。一方で、病気を扱う医者がすべての病気を経験することなどできるはずもなく、ましてや看取りを行うからと言って、「死」を経験したという医者はいないでしょう。歳を取ることでわかることもあるとは言いましたが、医師となったからといって、患者さんたちを追い越していきなり経験豊かな年寄りの医者になるわけではないのですから、医者には難しい問題ということになります。つまり、全ての経験を自分でしたという医者は、未来永劫、出て来ないという事実を再確認するしかなさそうです。

ここまで書いてきて、医者も含めて、自分が経験したことのない痛みを「知らずにいること」は幸せなことなのかという疑問が湧いてきました。また、「知らずにいること」は「罪になる」のではないかという気持ちも、同時に湧いてきました。視点を変えてみると、自分には全く関係ないところで起きている辛く残酷な事実を、「罪になるから」といって知らなければならないのでしょうか。

はじめに書いた身近な人の話から、禅問答とでもいった思考の迷路に入り込んでしまった気分でいます。その上でなお、医療に関しては日々の「仕事」と割り切ってこなしていかねばなりません。やはり己の肉体と精神は正常かつ健康であることを保たなければ、求められる「仕事」を完遂できないという矛盾から抜け出す答えを得られないままです。

つい先日、先の知人からの「辛いことを経験することは、その事が縁となって知り合った人たちから届けられる温かい気持ちや、良くなった時の喜びも知ることができ、決して悪い事ばかりではなさそうです」という言葉を頂き、少し自分も救われたと同時に、禅問答の答えも見出せそうな気がしてきています。併せて、古来「病を得る」という表現がなされてきた意味が少し分かったような気がしてきています。

「知らずにいること」が「幸せ」なのか「罪」なのか。かのソクラテスは「無知は罪なり、知は空虚なり」と言ったそうですが、どうやらギリシャ時代からの問答のようではあります。ただ、ソクラテスはこの後に「英知持つもの英雄なり」と言っているそうで、単に「知る」あるいは「知った」だけでは空虚であり、そこから学び何かを為すことが求められるということのようです。そうしてみると、先の知人のような人こそが「英雄」になりうるということで、こちらまで多くの事を教えて頂いた気がしています。

医療法人 寺田病院 院長板野 聡
1979年大阪医科大学を卒業後、同年4月に岡山大学第一外科に入局。
専門は、消化器外科、消化器内視鏡。
現在の寺田病院には、1987年から勤務し、2007年から現職に。
著書に、「星になった少女」(文芸社)、「伊達の警察医日記」(文芸社)、「貴方の最期、看取ります」(電子書籍/POD 22世紀アート)、「医局で一休み 上・下巻」(電子書籍/POD 22世紀アート)。
資格は、日本外科学会指導医、日本消化器外科学会指導医、がん治療認定医、三重県警察医、ほか。
1979年大阪医科大学を卒業後、同年4月に岡山大学第一外科に入局。
専門は、消化器外科、消化器内視鏡。
現在の寺田病院には、1987年から勤務し、2007年から現職に。
著書に、「星になった少女」(文芸社)、「伊達の警察医日記」(文芸社)、「貴方の最期、看取ります」(電子書籍/POD 22世紀アート)、「医局で一休み 上・下巻」(電子書籍/POD 22世紀アート)。
資格は、日本外科学会指導医、日本消化器外科学会指導医、がん治療認定医、三重県警察医、ほか。
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