常識とされていることが必ずしも正しくないことがこの世の中には多くあります。私たちは目の前にあるものを解釈し、そして見たものが正しいと思い込みます。例えば毎日太陽や月が昇って沈むのを見ると地球が動いているとはだれも考えつかなかったでしょうし、そもそも目の前に広がる景色を見て地球が丸いとはだれも思い思わなかったでしょう。
Seeing is Believing(見ることは信じること)です。
さて早期発見、早期治療が必ずしも生存の延長にはむすびつかないことがあります。その一つにリードタイムバイアスがあります。
Aさんは卵巣がん手術の後、再発の早期発見早期治療のために検診を欠かしませんでした。そのおかげであるときに肝臓に小さな再発を発見することができました。
「再発したらなかなか治癒できないと聞いていたので、再発があると聞いて落胆しましたが、小さいうちに発見できてよかったと思い先生の言われるように抗がん剤の治療をすることになりました。最初は入院して抗がん剤治療を行い、その後は2週間ごとに病院の外来に通いながら治療を継続することになりました。入院でもかなりの医療費がかかりましたが、通院でも毎回治療費がかかります。通院は丸一日かかりますし、治療のあと数日は体調が悪く何もできません。再発が判明するまでは仕事をしていたのですが、会社に悪いと思って仕事を辞めてしまいました。経済的なこと、毎日の生きがいを考えると今では少し後悔しています。孫がいますが体力的にも時間的にも以前のように遊んでやることができないのが残念です。お小遣いも時々あげていたのですが、今はその余裕もなくなってきています。以前はハワイに行ったりもしていたのですが…。いつまた悪くなるか毎日心配で夜もあまりぐっすり寝られません。趣味だったダンスも行く気にならなくていつの間にか辞めてしまいました。治療も長くなったのですが、病院の先生は『早く見つけて再発が小さかったから長く治療ができるのですよ、長生きしているからこそ治療ができるのです』と言われるのですが。私としてはなんというか…。少し治療のために生きているような気がしています。」
と言いながら治療を続けておられましたが、結局再発が見つかりお亡くなりになりました。
一方、病院嫌いのBさんは卵巣がん手術後病院には行くことがありませんでした。
「再発は怖いけれど、いろいろ考えても同じかなと思っています。時々手術の跡がチクチクしますが、気にしないようにしています。毎日散歩をして栄養と睡眠を取って、ストレスをためないようにしています。孫の相手も毎日できて、大きくなっていくのを見るのが楽しみです。趣味のダンスは毎週練習をしていて先日は大会に出ました。去年は家族でハワイに行きました。時々写真を見て楽しかったことを思い出しています。小さいですが庭があるので、花を植えていますので、花の手入れをするのが楽しみです。綺麗な花が咲くのを見ると心が洗われます。年金生活ですが、まあまあ不満なく生活できています。毎日家族とその日にあったことを話しながらご飯を一緒に食べることが楽しみです。」
実はBさんはすでにAさんと同じ時期に再発していました。しかしながら、病院に行かなかったために再発を発見されることがなく、したがって治療を受けることなく過ごしていました。ある時、お腹が少し張った感じがするので病院を受診したところ再発が見つかりました。先生にはどうしてもっと早く病院に来なかったのかと大変叱られました。Aさんと同じ抗がん剤の治療を行うことになりましたが、ある程度は効果があったようです。結局再発が原因でお亡くなりになりました。
結局AさんもBさんも同じ頃に亡くなりました。
これがリードタイムバイアスです。このリードタイムバイアスはがんが全身に広がっている場合、抗がん剤の効果が期待できない場合、腫瘍の増殖がゆっくりしている場合などに認められます。逆に言うと、局所に限局した初発がんや、非常に有効な治療法がある場合などにはリードタイムは認められないと言われています。大腸がんでは肝臓の転移がある場合でも手術で転移を取り除くことで予後の延長が期待できることがわかっています。
AさんとBさんを比べてみましょう。小さいがんを発見されたAさんは長く治療をしました。大きいがんを発見されたBさんは治療期間が短かったのです。臨床現場ではAさんとBさんを比べることはできませんから、「小さい=長い」、「大きい=短い」という事実しか見えません。AさんとBさんを治療した医師は「うん、やっぱり大きくなってから治療すると早く亡くなってしまうなあ、小さい時に見つけた方が長生きするなあ。」と考えてしまいます。私たちは経験したことを固く信じてしまいますが、実際は AさんもBさんも亡くなる時期は変わらないのです。目に見える事実の裏には想像もできない真実が潜んでいることがあります。
がんはそれぞれ個性があります。私たちは何を目的として治療を行うかを考えながら治療の選択を行うことが必要です。治療に伴う身体的、社会的な副作用は私たちの生活の質を低下させます。賢い治療を行うためにも患者/家族/医療従事者のコミュニケーションをよくすることが大切です。
目に見える全ては結局のところ関連性の産物です。ここにある光は影の比喩であり、ここにある影は光の比喩です。(村上春樹著『騎士団長殺し』より)
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