ゲノム医療への期待が高まっています。がんはゲノム解析によって根絶できるのでしょうか?がん治療はゲノム医療によって効果が高まるのでしょうか?
ここでゲノム医療についておさらいをしておきます。人間の体の細胞を構成するすべての遺伝子をまとめてゲノムと言います。がんは遺伝子の病気といわれ、私たちの細胞を構成する遺伝子に変異が起きると、細胞の増殖を司るネットワークに異常が起きてがんが発生する、と考えられています。そこで、このがんの原因となる遺伝子の異常を見つけ出しそれを治療することで、効果が高く副作用の少ないがん治療が可能になる、と考えられているのです。この遺伝子の異常は人種や個人によって一人一人が異なることから、ゲノム医療は個人に合わせた治療という意味で「テーラーメード医療」と呼ばれることがあります。あるいは、一つの標的を目標と定めて治療することから「標的治療」と呼ばれることもあります。このようにゲノム医療への期待は大きく膨らんでいるのが現状です。
ゲノム医療に関し警鐘を鳴らす論文がありましたのでご紹介します1)。
ゲノム医療においては、個人のがんの遺伝子の変異を調べて、それに適した治療薬を選択されます。したがって、100人の患者さんを調べた場合には、100人の患者さんに適切な薬剤を投与できることが理想です。
MDアンダーソンがんセンターで行われた2600人の患者さんの遺伝子スクリーニングの結果では、6.4%の患者さんに変異のある遺伝子に即応した(効果のある)薬剤が存在することが明らかになりました。米国がん研究所のNCI-MATCH試験では、795人のがん患者さんの遺伝子スクリーニングを行い、2%の患者さんに遺伝子変異に適合した薬剤の存在が明らかになりました。
さて、この6.4%と2%という数字、皆さんどうお考えですか?
ゲノム医療はすべての人に恩恵を与える、と思っておられた方が多いと思いますが、それからすると、この数字は少ないのではないでしょうか。
なぜこのような結果になったか。それは遺伝子の変異は極めて多く、それに対応する薬剤が少ないという現状があります。さらに、薬はあってもそれが様々な事情で使えないという場合もあるかもしれません。
フランスでは臨床試験以外では、遺伝子検査は行なっていません。もし遺伝子変異が見つかっても臨床試験には入らなければ薬が使えないからです。今後の研究によって、もっと多くの薬剤が使えるようにならなければ、個々のがんに適した薬剤は見つからないという現状が続くと考えられます。
では、適した薬剤が見つかったとして、効果についてはどうでしょうか?ゲノム医療の観点から言えば、遺伝子変異に基づく薬剤選択をしたのだから治癒だって期待できる、と考えがちです。しかしながら、遺伝子変異に対して開発された薬剤の効果は、必ずしも保証されているわけではありません。さらに、標的治療薬と言われる物の中にも、有害事象が強く出るものが少なくないのです。ゲフィチニブ(イレッサ)という薬剤で致死的な間質性肺炎が起きたことは、記憶に新しいと思います。
2016年のSchwaederleらの見積もりによると、遺伝子変異に基づいた薬物投与の結果でその腫瘍縮小効果があったのは約30%にとどまり、無増悪生存期間(腫瘍が大きくならないでいる平均の期間)も5.7ヶ月にとどまっています2)。つまり遺伝子変異に基づいてお薬を投与したからといって、必ずしも治癒するわけではなく、効果も限定的であったという報告です。著者はゲノム医療によってメリットが得られる固形がん患者さんの数はだいたい総患者数の1.5%と計算しています。100人に遺伝子の検査をして1人か2人が良い結果、それも限定的な結果が得られる、というわけです。
一方で報道にもある通り、ゲノム医療によって選択された薬剤で、劇的な効果を挙げた患者さんがおられることは事実です。しかしながら現在までに約18000人の患者さんが遺伝子検査をうけていて、劇的な効果を得ることができた患者さんは、わずか32人であったと述べています3)。
遺伝子の変異の頻度がどれくらいあるかを調べた研究があります4)。
このグラフは、横軸が遺伝子名称で、縦軸が遺伝子変異の頻度(%)を表しています。これによると、がん抑制遺伝子のP53の変異が全体の3割程度にみられましたが、赤丸で囲んだ部分のように、ほとんどの変異は全体の0.1%以下にしか見られませんでした。遺伝子の変異はこれ以下の頻度のものが、さらにずっと続きます。しかしながら、頻度と重要性は異なるのです。なぜなら頻度が少ない遺伝子変異の中にもがんの増殖と密接に関係しているものがあるからです。そのような遺伝子を見つけることこそゲノム医療の真髄と言えるのです。
しかしそのような遺伝子異常のある患者さん一人を見つけるためには、数千人の患者さんをスクリーニングしないといけないことになります。さらにそのような頻度の少ない遺伝子変異の一つ一つに対して効果的なお薬を開発し、さらに臨床試験をして、となれば莫大なコストがかかる、そのことはお分かりいただけると思います。そして、このコストを誰かが支払わないといけないわけです。
ゲノム医療については、患者さんのみならず、医療者もその効果を期待しています。実に理論的なのです。しかし現実はそう甘くありません。私たちは夢を追いながらも、幻想を追わず、現実を見ながらゲノム医療の進展を待ちたいと思います。
文献)
1)Prasad V. The precision-oncology illusion. Nature. 2016 Sep 8;537(7619):S63.
2)Schwaederle, M. et al. JAMA Oncol. http://dx.doi.org/10.1001/jamaoncol.2016.2129 (2016).
3)Prasad,V.&Vandross,A.MayoClin.Proc.90,1639–1649(2015).
4 )Funda Meric-Bernstam, et al. Feasibility of Large-Scale Genomic Testing to Facilitate Enrollment Onto Genomically Matched Clinical Trials. J Clin Oncol 33:2753-2762. 2015
順天堂大学医学部附属順天堂医院や横浜市立大学附属病院ではすでに遺伝子検査を行っています。横浜市立大学附属病院の遺伝子検査とその後の治療にかかる費用は現状ではこのようになっているようです。
参考)がん遺伝子検査外来|費用 (横浜市立大学附属病院)
がん遺伝子検査は保険外診療になります。初回説明の外来に1万1130円の支払いが必要になります。その後、検査に同意し、検査を受ける場合には、60万7416円(横浜市立大学附属病院の院内患者さんは59万7166円)の費用が必要となります。この金額には、検査結果の説明が含まれており、これ以上の追加請求はありません。初回説明の外来後に、その場で支払うこともできますが、一度考えて後日検査に納得してから支払うことも可能です。
また、本検査によって効果があると考えられる薬剤が見つかった場合でも、多くの場合、保険診療内で使用することが出来ません。保険適応外の薬剤を使用する場合は、自費診療となります。この点に関しましては、初回外来時に現在日本で使用可能な分子標的薬を自費診療で使用すると、どのくらいの費用が必要となるのか、いくつかの例を説明させていただきます
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