安倍内閣は、再び「人づくり革命」を掲げて、有識者会議を立ち上げています。確かに、人づくりは重要な問題ですが、では、どの様な人材を育てようとしているのかを問うと、まともな返答がないのが通例です。
戦後長い期間、日本の初等中等教育は(高等教育も含む)、企業の役に立つ人材を育てることに徹していました。太平洋戦争で日本の産業が壊滅し、一刻も早く復興するためには、まずは企業の再興、そしてそのためにはそれに沿った人材が必要とされたのです。
同時に、1930年代からの大量生産時代においては、工学的な技術を持ち、大量生産体制に適応した、つまり、従順で規律があり、一斉に行動する、いわば「体育会系」の性格を持った人材が企業にとって必要でした。行動に疑問を持ち、企業の言いなりにならない社員は迷惑だったのです(現在でも、かなりの数の企業はこの様な「体育会系」の人材を求めている)。
しかし、1980年代からの、IT革命は、それまでの産業とは大きく異なっていました。大量生産でなく、当時の言葉でいえば、「重厚長大」から、「軽薄短小」の時代に変わっていったのです。この様な時代においては、大企業の大量生産はもはや収益を大きく産むことはなく、独創的な考えに基づく事業が必要となったのです。よく考えてみると、大量生産時代は、人類の歴史上、たかだか50年から100年程度の短期間だったことが分かります。
日本の戦後教育は、大量生産に適合する人材育成には有効でしたが、独創的な考えを持つ人材を作ることに対しては、非常に不得意でした。従って、現在の教育に対する考え方を継続したうえで、多少の修正を行い、「独創的考え」を持つ人材を育成しようとしても、それは無理な相談です。それは社会の構造とも関係するのです。独創的な人材は、「個別化社会」に発生します。つまり、周囲から一旦切り離された人間が、自分で生きていくことを強いられ、その上で、協調する手順を作り上げていくのです。1980年代から1990年代にかけて、世帯構造は変化しましたが(3世代同居の急速な減少と、単身所帯の増加)、それが「個別化社会」への変化とはなりませんでした。その証拠に、未だに孤立や孤独は良い状態とは言えず、避けるべき状態であり、社会はその状態を作らないようにすべきであるとの意見がマスコミを含めて国民全般に強いのです。
初等中等教育について、最も重要な点は、考える力、考えたことを表現する力をつけると共に、それが自分で考え出されたことに重要性が有るのです。その点で、現在行われている「正解を求める」方式の教育では、自分が考えることの育成にはなりません。つまり、考える過程が大切であり、正解は一つではないのです。しっかりと考えなさい、しかし、正解はこうである式の教育は無意味なのです(これは多くのクイズ番組にも共通する)。正解は必ずしも一つでないことを学ぶと、自分の考えを表明出来るようになります。日本人が質問せず、自分の考えを表明しないのは、「間違っていたらどうしよう」との恐怖心を持っているからなのです。「正解を求める」方式の教育は、この様な大きな副作用を産み出しています。
自然科学系の問題は数学を基礎としているので、正解と思われる回答は、確かにあるでしょうが、社会的な問題あるいは倫理的な問題では、正解は複数あることが普通です。
例えば、自然科学が大きな領域を持つ航空機の事故は、人間的社会的要素も多少加味すべきですが、多くは自然科学的分析によって減らすことが出来ます。しかし、日本が軍隊を持つ方が良いかどうか、外国人移民導入をどうするか、あるいは、ウーバーやエアビーアンドビーなどのシェアリングエコノミーを導入して規制を取り外すかどうか、などについては、最初から正解が分からないのです。その結果、多くの人の意見はマスメディアが作り上げたものを採用することになり、どこかで聞いたような、同じような意見になってしまいます。従って、初等中等教育においては、言葉を覚えること、計算が出来るようにすること、歴史を教えること以外は、討論を行ってその過程で、複数の考え方があることを学ばせる必要があるのです。ただし、この様な教育には時間がかかり、教師の質、数も重要です。
最近では、非認知能力が大切であると認識されていますが、この様な非認知能力は周囲との協調であると思われています。しかし、非認知能力は、自己を主張すること(自由に発言すること)と、その影響を受ける他者との関係をどのように結ぶかに関する能力です。この場合、自由に自己を主張することがあって初めて、周囲との関係性が問題になるので、自己の主張がない限り非認知能力の向上も図れないのです。この様な能力を開発することは、当然、独創的人間を輩出することに貢献するのです。しかし、この様な教育は、現在の教育体系を根本から変える必要があり、現状の認識をどの様にするかから始めなければなりません。初等教育での、技術的志向をどうするか(例えば英語教育はその典型)、クラスあたりの教員数はどの程度が適切か、道徳教育は倫理観を「教える」場でなく、「考える」場になっているか、正解を求める教育の蔓延をどうするか(速成教育をしようとすると、正解を求める必要がある)などについて、真剣に議論する必要があるのです。
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