医師はDouble Agentか?

皆さんは「Double Agent」と聞いて、何を想像しますか? 007ではありませんが、端的に言えば「二重スパイ」ですよね。医師が「二重スパイ」とは穏やかではありませんが、医療倫理の分野では、医師=Double Agent論というものがあります。

医師は患者のAgent

「世界医師会(WMA)医の倫理マニュアル」には、「医師は昔から他者のニーズは考慮せず、自分の患者の利益のためにだけ行動するように期待されていました」とあります。これは、医師の職業倫理として基本中の基本でしょう。患者さんにとってみれば、私の先生は私のことだけを考えて欲しいというのは、偽りのない素朴な願いです。
つまり、医師はまずは患者のAgent(代理人)であるべきで、それ以外の人のAgentであってはならないはずです。患者さんという依頼者のことを一番に考え、行動することがAgentとしての使命です。

医師は社会のAgent

しかし一方で、同じマニュアルには続けて、「近年になって、もう一つの価値、すなわち正義(justice)が医療上の決定における重要な要素となってきました。それは、資源の分配について、もっと社会的なアプローチ、すなわち他の患者のニーズを考慮に入れるアプローチを要求しています。このアプローチによれば、医師は自分の患者だけでなく、他者に対してもある程度の責任を負います」と書かれています。
これはどういうことでしょうか。自分の受け持ちのがん患者さんの治療費に数千万円もかかるなら、そのお金を他の患者さんの治療に回してはどうかということも考えなさいと言うことでしょうか。医師は社会のAgentであることも必要という考え方です。

お医者さんはお金のことより患者のことだけを考えて!

ある学会で、限られた医療費をどのように配分するのが望ましいかというディスカッションが行われていた時、障害をお持ちのお子さんのお母さんが、フロアから「お医者さんは、お金のことなんか考えないで、目の前の患者のことだけを考えて行動して欲しい。」と強く訴えられました。本当にその通りだと思います。ほとんどの医師は、そのように振る舞いたいと考えています。

「白い影」の田宮二郎

その昔、田宮二郎という俳優が、ニヒルな医師を演じる「白い影」というテレビドラマがありました。その中で、がん末期の患者に輸血をしようとする若手医師に対して、主人公の田宮二郎が「そんなことをしても無駄だ。代わりに赤い色のついた点滴をしておけ」と言い放つ場面が今でも記憶に残っています。当時中学生くらいだった筆者は、田宮二郎に抗って患者のためにはできることは全てすべきだと主張する熱血医師に感情移入し、冷酷無比な主人公に憤りを覚えたものです。

ベッドサイド・ラショニングと医師の倫理

実際に患者さんを診療している医師が、臨床すなわちベッドサイドで、社会的・経済的配慮から、患者に対して非効率な治療を差し控える行為を、「ベッドサイド・ラショニング」(bedside rationing)」と呼ぶことがあります。ラショニング(rationing)とは文字通り、配給のことですが、資源の配分を強制的に行うイメージがあります。英語圏の人は、このラショニングという言葉を聞いて相当嫌な感じを抱くはずです。
このベッドサイド・ラショニングという行為は、医療倫理学の教科書でも医師として行うべきでないとされています。田宮二郎(正確に言えば彼が演じた主人公)は、そういう意味でも許し難い行いをしたわけです。

ベッドサイドではないラショニング

では、現在の緩和ケア病棟で末期のがん患者に輸血は行われているでしょうか。田宮二郎のような医師が、そんなことはやっても無意味だし、資源の無駄遣いだからやめろと言わなくても、恐らく輸血はあまり行われていないはずです。緩和ケア病棟の医療費が包括払いになっていることが、そのことに影響している可能性は否定できません。こうした患者さんへの輸血は、純粋に医学的判断と言うよりも、患者さんの療養の場が、包括払いか出来高払いかに依存している恐れがあります。
もちろん、末期がん患者に輸血を行うことを推奨するエビデンスは無いから、行わないというのが公式見解でしょうが、患者さんや家族が強く望めば、(包括化がされていない)一般病棟では輸血が行われる可能性はあります。患者さんの希望を叶えることは医療の大切な役割です。
このように医療制度によって引き起こされる資源配分(ラショニング)は、嫌々ながらも受け入れている医師は多いと思われます。ベッドサイドはダメでも、ベッドから離れればラショニングは避け得ないものということでしょうか。

オプジーボとその適正使用

このメールマガジンでも紹介したように、オプジーボという非常に高額な抗がん剤の使用を巡って、オピニオンリーダーでもある東京の有名な医師が、「オプジーボ栄えて、国滅ぶ」と叫び、センセーションを巻き起こしたことが思い出されます。これを受けて、国もその薬価を半額まで下げるなどの対策をとり、一時の狂騒は収まりました。


しかし化学療法の専門家である同医師を中心にして、その適正使用のガイドライン作りが行われていると聞いています。こうした医師の自主的な使用制限は、概ね好意的に受け止められていますが、見方によれば、まさにベッドサイド・ラショニングそのものです。


諸外国と異なり、オプジーボのみならず我が国ではこうした新規抗がん剤に対して、ベッドから離れたラショニングは行われていません。適応があれば、使用可能です。ということは、主治医によってその薬を使ってもらえるかどうかが異なってくることになります。患者の立場に立てば、まさにDouble Agentのそしりを免れない行為です。むろん少なからぬ医師が、患者の希望をベースにどんどん高額な抗がん剤を使用することに一定の疑問を抱いています。経済的な考慮を全く排除しても、こうした抗がん剤の適応は自主的に限定すべきであると思っている可能性が高いことは、筆者も十分認識しています。

再び「医師はDouble Agent」か?

医師は好むと好まざるとに関わらず、患者のAgentかつ、社会のAgentたらざるを得ないようです。これは、皆さんがある時は患者やその家族であり、ある時は納税者や被保険者としての国民であるということと表裏一体をなしています。後者の立場に立てば、医師には社会のAgentとしての視点を持ってもらい、医療費の無駄遣いのないようにして欲しいというのがその希望でしょう。目の前の患者のことだけを考える余り、他の患者の利益に全く考えが及ばない医師は、社会のAgentとしては失格です。

 

でも、皆さんが患者の立場になれば、医師は一義的に自分のAgentとして振る舞ってもらいたいはずです。お金の心配は、国に任せて、医師には力一杯患者の治療にあたってほしいのが本意でしょう。

 

がん末期のつらい倦怠感の改善に輸血が効くことは十分あります。例として末期がん患者のあなたが、倦怠感をもたらすがん性貧血の改善のために輸血の希望を主治医に伝えたとしましょう。その際医師から「がん末期の患者さんへの輸血は医学的に無益です。」「あなたのような状態の人に輸血することを薦めるガイドラインは存在しません。」と言われた場合、素直になるほどそうかと思えればいいですが、ひょっとしてこの先生は、ムダな医療費を節約しようとしてそんなことを言っているのでは?という黒い疑念が生じることも有り得るでしょう。


つまり、主治医の先生は、私のAgentなんかではなく、社会のAgentかも知れません。まさに、Double Agent(二重スパイ)状態です。彼はもしかしたら、敵国のスパイではないかと疑われた時点で、自国のAgentとしては首が危なくなります。医師の場合は患者の信頼を失います。

最後に

皆さんも、患者やその家族である一方で、国民でもあるように、医師も、患者さんのAgentと国民のAgentの一人二役を演じざるを得ません。それが通常は、患者さんにとってDouble Agentと映らないのは、普段から患者さんに信頼されるような医師としての言動の積み重ねが有るからです。

 

しかし本来両立し難い役割を両立させるには、非常な困難が伴います。またその困難さの度合いは、医療に割ける資源が限定されればされるほど、増してゆきます。そうした困難を皆さんに理解し、共有してもらう中で、単純なDouble Agent論を止揚(アウフヘーベン)した形での、真の患者・国民のAgentとしての医師の役割が見えてくるように思われます。

少子高齢化が進行し、医療財政が逼迫する中で、これは楽観にすぎるでしょうか。
 

岡山大学大学院保健学研究科 副研究科長 教授齋藤 信也
1983年岡山大学医学部卒業。1987年岡山大学大学院医学研究科修了(医学博士)。
米国ネブラスカ大学外科客員助教授、厚生省中国四国医務局医療課長等を経て、2001年岡山大学医学部講師、2003年高知県立高知女子大学教授、2008年から岡山大学大学院保健学研究科教授(現在に至る)。
2015年から2017年まで医学部副学部長、2017年から保健学研究科副研究科長。
1983年岡山大学医学部卒業。1987年岡山大学大学院医学研究科修了(医学博士)。
米国ネブラスカ大学外科客員助教授、厚生省中国四国医務局医療課長等を経て、2001年岡山大学医学部講師、2003年高知県立高知女子大学教授、2008年から岡山大学大学院保健学研究科教授(現在に至る)。
2015年から2017年まで医学部副学部長、2017年から保健学研究科副研究科長。
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