認知症と診断されることの問題点

かつては「ぼけ」と言われた状態が、今では「認知症」と言われる。この違いは大きい。「あなた最近呆けたんじゃないの」と言われても、「そんなことはない」「そういえば少し呆けたかも」と返すが、「あなたは認知症です」と言われた時は、「ぼけ」とは全く違って言い返すことが出来ない。それは、その状態が、部分的か全体的なものかを指しているようでもあり、重みの違いでもある。

病気の診断は、診断自体がマイナスに働く場合がある(特に精神科領域)。どうも認知症はその典型のようだ。病気の早期診断は、その治療法がある場合には推奨される。ガンなどはその典型であり、世界中で早期診断が求められている。それに比べて認知症は、早期に発見してもこれといった治療法はない。治療等として推奨される、生活を活発にすることなどは、認知症の診断がなくても高齢になると推奨されることだ。物忘れは、自分が主観的に感じることだが、認知症はそれを客観的に示すものにすぎない。

もう一方で、認知症と診断されたほうが良い場合、それは「シックロール」と呼ばれる。「シックロール」は高齢者本人にとって、病気だから仕方ないと、許してもらえる利点がある。しかし、その反対に、自分が責任を持つと言っても、病気だから責任をもたせられないという問題も生じる。親族や社会も、認知症なのだからその人が何かをするのは禁止、つまり、「認知症」と診断されたら、普通の人間としての扱いを認めてもらえない。社会から疎外されるのだ。

孤独の人を「孤独症」とは言わない。孤独は出来れば回避したいが、病気の診断はない。孤独かどうかは主観的な判断であるが、最近では客観的に孤独を定義し始めたので、そのうち「孤独症」という病名が生まれ、孤独の早期発見が推奨されるかも知れない。孤独になってはいけない。なぜならば「病気」だからであると言われそうだ。「孤独症」との診断も「認知症」と同じようになるかも知れない。

「認知症」と診断を下す理由は、次のようなものだ。多くの人が認識できる客観的なスケールを示すこと、そして、診断によって、シックロールのよい点、つまり、周囲の人がその人を倫理的に問題視しないことである。個人の状態を客観的に見えるようにする。なぜなら、支援をするに当たって、多くの人がその人を見るときに、一定の状態で見ることが必要となるからだ。必ずしも医療的な面だけに限定されない。これは本人の主観とは切り離されるし、本人の主観は「認知症」の人が言っていることと無視あるいは軽視される。これは、「診断=社会的説得装置」になっているからだ。

認知能力は、周囲の環境との関連で、人間の能力を位置付ける。外界のものをこれはこれ、あれはあれと位置づけたうえで、人間は周囲の環境と付き合い生活している。つまり、それまでの道具の位置や、やり方を基にした認知様式が作られている。認知症だからといってすべてが簡単になれば良いというものでもない。複雑なやり方も自分の中に収めることが出来れば記憶が低下しても使うことは出来るのだ。

認知症となると、周囲の支援が必要となるのは確かにそうだ。しかし、認知症の当人と当人が認識している周囲の環境との関係は、独特なものである。はたして、客観的にその関係を再現して、個別に支援の方法を作り上げることが出来るだろうか?それとも、「認知症」と診断せず、当人と周囲の環境との関係は放置し、それぞれの意向に沿った行動を認めるべきなのだろうか?

公益財団法人橋本財団 理事長、医学博士橋本 俊明
1973年岡山大学医学部卒業。公益財団法人橋本財団 理事長。社会福祉法人敬友会 理事長。特定医療法人自由会 理事長。専門は、高齢者の住まい、高齢者ケア、老年医療問題など。その他、独自の視点で幅広く社会問題を探る。
1973年岡山大学医学部卒業。公益財団法人橋本財団 理事長。社会福祉法人敬友会 理事長。特定医療法人自由会 理事長。専門は、高齢者の住まい、高齢者ケア、老年医療問題など。その他、独自の視点で幅広く社会問題を探る。
  • 社会福祉法人敬友会 理事長、医学博士 橋本 俊明の記事一覧
  • ゲストライターの記事一覧
  • インタビューの記事一覧

Recently Popular最近よく読まれている記事

もっと記事を見る

Writer ライター