正常と異常との境界

認知症が非常な勢いで増えている(図1)。発達障害も近年著しく増加しているようだ。当然のことながら、認知症が急に増えることはなく、発達障害も同様である。病気の中で急に増えたり減ったりするのは、公害・薬害や感染症のみである。疾患は、一定の基準のもとに診断が下されるが、疾患と健常の境界、つまり、正常と異常との境界は区別しにくいし、どこに線を引くかによってそれぞれの数や割合が大きく変化する。ここで留意すべきは、疾患が「診断基準」に基づいて定義されるという点である。正常と異常との境界は連続的であり、明確に区切れるものではない。そのため、どこに線を引くかによって疾患数や有病率は大きく変動する。すなわち、疾患の増減は必ずしも「実際の患者数の変化」を反映するものではなく、「基準の変更」や「診断の適用範囲の拡大・縮小」によって大きく影響されるのである。これは器質的疾患の代表であるガンにも当てはまる。ガンと非ガンの間に明確な境界が存在するわけではなく、前がん状態や境界病変と呼ばれるグレーゾーンが存在する。疾患の概念そのものが、本質的に連続性と曖昧さを含んでいることを示している。

一般的に言うと、正常異常の線の引き方は、つねに正常寄りに移動している。つまり異常が増える傾向にある。物理的に線を引くことが、もともと難しい精神疾患の場合は、この傾向がさらに強い。典型的なうつ病はあるが、反応性うつ病やうつ状態と、健常な状態との境界ははなはだ不明確である。例えば、あなたが仕事上の問題から起こった憂鬱な状態で、精神科に行った場合、うつ病あるいはうつ状態などの「疾患(病気)」と診断される可能性は「かなり」高い。その状態が、仕事の失敗で落ち込み、しばらくすると失敗を取り返し、気分が良くなるとしても、うつ病あるいはうつ状態との診断の可能性は大いにある(この場合の疾患は簡単に治るだろう)。

このように精神科の診断範囲は正常の側が縮小している。従って、冒頭に上げた認知症や発達障害の診断基準は、以前には正常とされた状態を病的(疾患的)状態と認定している可能性が高い。この認定変化は、良い方にも、悪い方にも反応する。これらの反応は、シックロール(病者役割)と呼ばれる。DSM(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)-5=アメリカ精神医学会が作成する、精神疾患の診断・統計マニュアル第5版(*1)、において、この傾向はさらに強くなった。従って、精神的疾患は、線引きによってその数は大きく増減する。DSM-5のような公的な診断基準の変更があった場合は、その影響が大きい。

なぜ診断が常に、正常寄りに境界が移動し、異常が多くなるのか? その理由は、シックロール(病者役割)が、多くの人にとって都合が良いからだ。シックロール(病者役割)の良い点は、問題の原因が病気であると分かると、病者と認められた人に対して、周囲の人達が倫理的に非難しなくなること、本人が自分で病気であると納得することによって自身のストレスを軽減することが出来ることなどである。これに対して、悪い点は、世間や自分がシックロールに嵌まってしまうことだ。世間があのひとは病気だから仕事や生活ができないだろうと思い込むこと、あるいは、自分で病気の中に依存してしまうことなどである。

認知症は、本人というよりも周辺の家族などに対してシックロールが大きな役割を果たす。物忘れなどでの周囲からの倫理的な非難は収まり、あるいは、なにかにつけ怒りっぽいことなども容認される。しかし、認知症というレッテルを貼られ、自分で出来ることも制限され、社会生活への参加が困難となる。運転免許証の返納、独居生活を禁止されることなどである。また、発達障害について、例えばADHDの子どもに対して、授業中の態度が悪いことを教師は非難しなくなるかわりに、ADHDの子どもに対しては、支援学級への移動あるいは、定型的な治療法の前では、周囲からの普通のアドバイスや訓練が行いにくくなる。

もちろんこれらの診断は、治療が症状の軽減に役立つとの前提でなされている。しかし、診断がなされることによって、かえって問題が起こることがあることも認識しなければならない。



(図1)認知症の急速な増加



(*1)DSM-5:精神障害の診断と統計マニュアル(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, DSM)は、精神障害の分類(英語版)のための共通言語と標準的な基準を提示するものであり、アメリカ精神医学会によって出版された書籍である。DSMは当初、統計調査のために作成された。DSMの第3版より、明確な診断基準を設けることで、精神科医間で精神障害の診断が異なるという診断の信頼性の問題に対応した。 DSM-5は第5版である。DSMは、世界保健機関による疾病及び関連保健問題の国際統計分類(ICD)とともに、国際的に広く用いられている。

公益財団法人橋本財団 理事長、医学博士橋本 俊明
1973年岡山大学医学部卒業。公益財団法人橋本財団 理事長。社会福祉法人敬友会 理事長。特定医療法人自由会 理事長。専門は、高齢者の住まい、高齢者ケア、老年医療問題など。その他、独自の視点で幅広く社会問題を探る。
1973年岡山大学医学部卒業。公益財団法人橋本財団 理事長。社会福祉法人敬友会 理事長。特定医療法人自由会 理事長。専門は、高齢者の住まい、高齢者ケア、老年医療問題など。その他、独自の視点で幅広く社会問題を探る。
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