

人はなぜ死を恐れるのか。理由はいくつも挙げられるだろう。未知の世界への不安、肉体の苦痛への恐れ、愛する人との別れの悲しみ。しかし、根底にはもっと深い理由が潜んでいる。それは「自分という存在が完全に消えてしまう」という感覚への拒否感だ。死は、肉体の終わりであると同時に、自我の終焉である。とりわけ、自分への意識が強く、成し遂げたことや築き上げた関係への執着が大きい人ほど、この事実を受け入れるのは難しい。
仏教の中心的な教えのひとつである「無我」は、この問題に対してユニークな視点を与える。無我とは、不変で固定した「私」という実体は存在しないという考えだ。私たちが「自分」と呼ぶものは、感覚、思考、感情、記憶といった移ろいやすい現象の束にすぎない。自我が存在しないとの点では、古代インドの仏教僧も、18世紀の哲学者デイヴィッド・ヒュームも、人間を「感覚と知覚の束」として捉えた点で一致している。
もし、この考えを本当に腑に落とすことができたなら、「自分が消える」という恐怖は大きく揺らぐだろう。なぜなら、「もともと永遠の自分などなかった」と理解できるからだ。死は何かを奪う出来事ではなく、ただ現象が別の形に変化するだけだ、という受け止め方が可能になる。仏教的死生観では、死は断絶でなく、因果の流れの一部として理解される。
しかし、ここにひとつの落とし穴がある。無我は「到達すべき目標」として追い求めると、その時点で自己への執着が働いてしまう。つまり、「自分が無我になる」という発想そのものが、無我の思想と矛盾しているのだ。無我は意図的な努力によって掴み取るのではなく、執着が自然にほどけていった結果として現れるものである。
このことは、死を意識したときに、無我を取り入れようとしても遅すぎることを意味する。強い自我を持つ人が、人生の最後の瞬間にいきなりそれを手放そうとしても、心は容易に応じないだろう。だからこそ、無我の理解や自我を和らげることは、生きているうちから少しずつ育んでいく必要がある。
そのための方法は様々だ。瞑想によって、思考と感覚をただ観察すること。日々の生活の中で、「自分の欲望や虚栄が行動をどれほど左右しているか」を静かに見つめ直すこと。利他的な行動を通じて、「自分中心」の感覚を和らげること。こうした習慣は、死のためだけではなく、生きる質そのものを変えていく。
ある映画のワンシーンを思い出す。『アフリカの女王』の主人公ローズは、死を目前にして「この人と出会い、共に死に臨むことに悔いはない」と神に告げる。そこには死からの救済を求める姿はなく、ただ静かな受容がある。これは宗教的信仰の力かもしれないし、ある種の無我の境地かもしれない。重要なのは、こうした態度が死の間際に突然訪れるわけではないということだ。それは、生き方の積み重ねからしか生まれない。
結局のところ、死の受容とは「死ぬ瞬間の心構え」ではなく、「どのように生きてきたか」の延長にある。無我の思想は、その生き方を支える有効な道標になり得る。しかし、それは短期間の精神修養や意識改革ではなく、日々の中で少しずつ自我への執着を手放す長い旅路である。
死を恐れることは自然なことだ。だが、その恐れの根を見つめ、執着を緩める練習を重ねることで、死は全く別の表情を見せるかもしれない。無我は、そのための静かな扉である。







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