ある寒い冬の日のこと。東京の地下鉄で、車いすの男性がホームに取り残されていた。エレベーターが故障していたのだ。誰もが「気の毒だな」と思いながらも、急ぐ足を止めない。ただ一人、彼のそばにしゃがんだ若者がいた。彼は力の限り男性の車いすを押し、階段をのぼった。あとから聞くと、その若者は移民2世だった。
この小さな出来事には、近代におけるモラルの本質がある。人類の歴史の大半は、「助けたくても助けられない」時代だった。フランスの作家、ボーヴォワールが『老い』で描いたように、歯が抜けて食べられない者、足を引きずる者、重い病を患う者は、共同体の“負担”として見捨てられ、時には殺された。それは冷酷さではなく、生きるための現実だった。余裕がなければ、他者を思いやることすらできない。
だが、社会は変わった。生産力が上がり、都市ができ、福祉が整い、人々は「自分たちと違う人間」のことを考える余裕を得た。障害がある人、高齢者、外国人など、かつてなら見えない存在として扱われてきた人たちが、社会の一員として迎えられるようになったのだ。
そして、現代の社会的モラルは、Diversity(多様性)・Equality(平等)・Inclusion(包括)、いわゆるDEIに集約される。健常者が歩く階段の隣にスロープがある。信号機が目の見えない人に音で道を教える。テレビには字幕がつく。空港には多言語対応の案内がある。これらはすべて、社会が「誰かを排除せずに共に暮らす」ための投資だ。
もちろん、コストはかかる。だが、社会はそれを「無駄」ではなく「価値ある支出」とみなすようになった。それが、近代社会の到達点だった。少なくとも、そう思われていた。
しかし今、空気が変わりつつある。
トランプ氏が象徴するように、「自分たちとは違う人間」を排除しようとする動きが勢いを増している。障害者、高齢者、移民、LGBTQなどの人たちに対して、DEIは「エリートのきれいごと」として攻撃され、「普通の人」だけの「効率的な社会」が理想のように語られる。そして、それまでDEIに賛同していた企業は、手のひらを返すように反DEIの陣営に加わっている。
これは単なる反動ではない。全体主義の匂いがする。
全体主義は、「大多数の正常な人々」のみによる社会を目指す。そこでは、役に立たない者は切り捨てられ、異質な者は排除される。そして必ず、政権に不都合な存在――議会、裁判所、メディア――が標的にされ、機能不全へと追い込まれる。前トランプ政権がまさにそうだったし、現トランプ政権でも同じような現象が起こっている。
DEIは、ただの「人権意識の高まり」ではない。それは、余裕を得た人類がようやく手に入れた「他者へのまなざし」であり、「文明の証」である。だからこそ、それが攻撃されるとき、私たちは注意深くならなければならない。「普通の人」だけの社会は、やがて「普通じゃない人」を誰かが決め、誰もが排除の対象になる。
あの地下鉄の若者が、車いすの男性に手を差し伸べたように。私たち一人ひとりが「自分とは違う人間」にどれだけ想像力を持てるか。それが、自由で民主的な社会を守る最後の防波堤になるのかもしれない。
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