患者が訴えたかったことは?

看護師は7時半にステーションのホワイトボードをチェックした。一昨日の入院欄に見覚えのある患者の名前を見つけた。ステーションから遠い部屋に入院したようだ。重症ではないという事だ。患者の顔をうっすらと思い出し、次第に懐かしい気持ちになる。
病名は・・・UTI。尿路感染症(尿路(腎臓、尿管、膀胱、尿道など)に細菌が感染して炎症を起こす病気)だ。始業前に時間を作り、挨拶に伺った。

看護師「お久しぶりです。この度は大変でしたね。お加減はいかがですか?」
患者「・・・ぁ、あぁ、そう、久しぶり。」

患者は運動器疾患で下半身に障害があり、要介護認定を受けて特別養護老人ホームに入所していた。認知症はなく、むしろしっかりされていた方だ。

患者「・・・ね・・ねつ、尿が出なくて熱が出て・・・今は楽になったよ。」
看護師「それは大変でしたね。病院の生活で困った事があったら言ってくださいね。」
患者「いや、ないよ。ないんだ。」
看護師「・・・? 特養さんに比べて病院は窮屈でしょう。あちらの方が良い暮らしができていたでしょう?」
患者「そう・・・じゃないんだよ。違うんだ。」
看護師「そうなんですか・・・? また時間が出来たら来ます。聞かせてください。」

以前より受け答えへの反応が悪く感じるのは本調子ではないからだろうか?と看護師は首をひねった。後日、約束通り病室に伺った。
患者は落ち着いた様子で電動ベッドをギャッジアップし、佇んでいた。

患者「こないだは悪かった。ちょっと混乱しててね。」
看護師「いえ・・・、お加減が悪いからかなと思いました。」
患者「話をする事が久しぶりで、言葉が出なかったんだ。」
看護師「話をする・・・ことが、久しぶりですか・・・?」
患者「そのまんまだよ。普通に会話をするのが久しぶりだったんだ。私が入ったところは認知症や寝た切りが多くてね。」
看護師「なるほど、確かにそれじゃ話相手になる人はいないかもしれませんね。」
患者「わかっていないようだな。君も。そんな事は知ってて入所したんだよ。」
看護師「えっ?じゃあ、どうゆう・・・」

看護師は患者の言う言葉の意味をはかりかねた。皺の深い患者の顔からは微妙な表情を読み取る事は難しい。患者は少し間をおいてから話し出した。

患者「少し、時間いいかな。」
看護師「はい。お付き合いします。」
患者「職員のほうだよ。私も認知症や寝た切り老人と同じように処遇されていたのだ。家庭の愚痴で盛り上がっている職員に、突然カーテンを開けられ、オムツを開けられるんだ。」
看護師「・・・」
患者「オムツ交換のついでに、肛門を明かりに向けられ、褥瘡や皮膚障害を観察される。その間、職員は私のほうに意識はない。他愛のない話で盛り上がったままだ。

看護師「・・・」
患者「食後には無言で口の中を指を突っ込まれ濡れガーゼで拭われた。口腔ケアだ。その間、同室者も無言で口腔内吸引をされている。というか、そちらは元々、寝た切りで話せないわけだが。」
看護師「・・・酷い・・・職員ですね」
患者「そう思うだろうが・・・そんな簡単な話ではない。酷い職員などいない。聞こえてくる世間話から分かる、普通の人達なんだ。だから辛いんだよ。」
看護師「・・・うっ・・・」
患者「職員たちは、寝た切り患者たちや重度認知症たちに話しかけたろう。いつも・・・返答はなく、誰も・・・見ていないのだ。居室に響くのは自分の声だけだ。」
患者「相当忙しいようだった。介護の手がとまる事はない。私たちのプライバシーに配慮し、カーテンを開け閉めする理由も曖昧だ。なんせ、他者の視線を気に出来るほど“具合の良い入所者”はいないからな。」
看護師「・・・」
患者「習熟した職員ほど、流れるようにオムツに手をかけ、口にガーゼを入れてくる。無言だ。特に夜間は。」

看護師は言葉を失い患者の言葉に聞き入った。

患者「もちろん、一声掛けてからやってくれと頼んだよ。情報共有がされたのか、それからは半数の職員は声を掛けてから介護をしてくれた。それが数日毎に減り、最終的にはみな無言に戻る。繰り返しだ。」

患者「この病院では君のように声をかけてくれる職員は多い。それは施設に比べて、君たちが優れているわけでも心がけが良いわけでもない。声を掛ければ患者から会話が返ってくるからだろう。」
患者「少し話過ぎたな」

看護師はどう答えたらいいか迷った
看護師「・・・もし、お辛い様でしたら、退院先は違う施設に変える事も相談できますが」
患者「・・・考えておくよ。」
看護師は一礼し、その場を辞した。

看護師は患者の受け持ちに割り振られる事なく数日が過ぎた。
心の中では、ホッとする気持ちもあった。何をどう答えたらいいかわからなかったからだ。

看護師は7時半にステーションのホワイトボードをチェックした。前日の転床欄に患者の名前があった。ステーションから一番近い部屋に入っている。何かあったのだ。胸騒ぎを感じながら病室へ急いだ。病室に入るなり、血走った患者と目が合った。患者は身体拘束がされ、腕には点滴が入っていた。ラベルを見ると脳保護薬と抗凝固薬が投与されていた。

患者「!KD、Aあeおkaa&%」
脳梗塞を発症したのだろう。急性期せん妄を起こしているのか会話が成立しない。

何てことだ・・・。

それから患者はしばらく治療を受け、症状は固定化した。失語症と片麻痺が残った。元々、下半身に障害があったので動くのは片手だけとなった。回復期病棟でのリハビリを受け、かろうじて片手で食事を食べられるようになり、元の施設に戻ることになった。

退院の日、患者を見送った。看護師は「お大事に」と言い、頭を下げた。彼はこちらに気付いたようだったが何も話す事はできない。意思表示の方法はないのだ。そして彼との関わりは終わりを迎えた。

彼が言葉を話す事が出来たら何が話せたろうか? 彼は違う施設を選んだろうか?

ペンネーム 看護師宇梶 正
男性看護師がまだ少なかった時代に、広告代理店のグラフィックデザイナーから看護師へと異色のキャリアチェンジを遂げる。
伊豆半島の医療過疎地域で病院や施設などの多様な看護経験を積み、現在は千葉北エリアの中核病院で地域医療に従事し、培った経験を活かしながら患者と家族に寄り添う看護を実践している。
男性看護師がまだ少なかった時代に、広告代理店のグラフィックデザイナーから看護師へと異色のキャリアチェンジを遂げる。
伊豆半島の医療過疎地域で病院や施設などの多様な看護経験を積み、現在は千葉北エリアの中核病院で地域医療に従事し、培った経験を活かしながら患者と家族に寄り添う看護を実践している。
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