日本国憲法21条で規定されている「表現の自由」は、戦前の検閲や情報統制への反省として制定された。その内実は①「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」 、②「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」とされている。こうした「表現の自由」は、現在まで民主主義を支える重要な装置として働いてきた。しかし、本当に「表現の自由」は守られているのだろうか。守られているとするならば、現在の社会において、文化作品が窮地に立たされているという事実はどのように受け止めるべきなのだろうか。
音楽や芸術、文学など多岐にわたる文化作品は、本来、①ありのままに社会を映し出し、②社会を風刺することで(時には直接批判することで)、③歪んだ社会の軌道を修正することに貢献してきた。このことは日本に限った話ではないが、国内に限定してもその事例は数え切れないほどである。しかし、ポリコレ(ポリティカル・コレクトネス/Political Correctness)の台頭や多様性の尊重が叫ばれる中、文化作品はますます社会的/倫理的な配慮が求められるようになり、その結果として、文化作品が持つ「表現の自由」には目に見えない圧力がかかっているように思われる。ここで指す「目に見えない圧力」とは、放送禁止用語など目に見える規制の対となるような、暗黙的に働くものである。当然、害のある表現へ規制をかけることは健全な社会にとって必要なことであるが、その程度を間違えてしまうと、検閲と何ら変わらなくなってしまう。
現在の文化作品の多くは、①(何者かの意図が介入しながら)社会を映し出し、②婉曲的に批判し、③批判や炎上を避けるために扱うテーマを慎重に選択する傾向がある。また、③に関しては、端から扱わない状況もしばしば見受けられる。直近の事例としては、YouTubeにて投稿されたMrs. Green AppleのMV「コロンブス」が人種差別的であるとした理由で公開停止に追い込まれた。また、性加害の二次加害にあたる可能性があるとし、2024年の紅白歌合戦で披露される予定であった星野源の「地獄でなぜ悪い」が同氏の「ばらばら」に変更されたことなどが挙げられる。これらの対応は、アーティストの利害の観点や社会的/倫理的観点からは合理的であると言えるが、文化の役割という観点からはいかがなものか。社会的影響や倫理的責任を重視したうえで、今一度、いかに文化の役割を維持できるか検討しなくてはならないのではないか。
他方で、社会を痛烈に風刺する作品も依然として見られる。バンクシーによる資本主義批判や戦争批判は際立った例だろう。国内においても、各種SNSで政治的/差別的な内容以外でアカウント削除や投稿削除、アカウント凍結などのペナルティーを受けた作家達による企画展『私たちは消された展』などが開催されている。しかし、こうした運動には社会からの反発があらゆる形で付随してしまうのが事実である。そうした反発を和らげる、あるいは文化作品の再興を考える際にはキュレーターの存在が欠かせない。キュレーターが緩衝材となって、アーティストの制作背景や制作意図を社会へ説いていくことで、社会とアーティストの間を埋めることが重要なのである。これこそがキュレーターの醍醐味であり、人の心を動かすことができるのである。
ここで一つ視点を変えてみたい。フランスの社会学者ロラン・バルトの言葉を借りると、現状はまさしく「作者の死(アーティストの死)」、「読者の誕生(コンシューマーの誕生)」が生じているといえる。そして、そのために、文化作品は自由を奪われたのではないか。「作者の死」とは作者が作品の解釈を提示しなくなる/できなくなることを指し、「読者の誕生」とは作者が用意した解釈とは別に、各々が解釈し別解を創り出すことを指す。当然、どちらが良いという話ではない。作者によって用意された答えは読者に安心感を与え、作者に一種の権利と威厳を与える。他方で、答えがない作品を読者が自由に咀嚼することは作品をより豊かにしていく。
総じて、「表現の自由」は憲法によって明文化された権利であるだけでなく、社会的/心理的にも自由を保障していかなくてはならない。そうでなければ、画一化された文化のみが残るディストピアを迎えることは言うまでもない。
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