障害者のイメージの変化と「万が一」の障壁

「万が一」を文字通り捉えると、10000分の1 つまり0.01%で起こることですが、この万が一のために昔の障害者は社会との関わりが奪われてきたことを書きます。

私が生まれた1970年代の障害者に対する社会のイメージは、護られる人、弱い人、何もできない人、病弱 などがありました。私は脳性麻痺なので体力は普通にあるのにひとくくりに障害者とされ、病弱と思われていました。このようなイメージが障害者にどんな影響を与えたでしょうか。例えば、病院に行くと診療拒否、理由は「万が一」のことがあるから。タクシーに乗ろうとしても乗車拒否、理由は「万が一」のことがあるから。店に行っても入店拒否、理由は「万が一」のことがあるから。私は養護学校出身ですが障害者が一般学校や幼稚園に通おうとすると入園や入学拒否、理由は「万が一」のことがあるから。今なら考えられないですが、昔はこれが普通で何も思わなかったです。

それと、「愛は地球を救う」をキャッチフレーズに障害がある人が健常者と同じように何かに挑戦して(障害を克服しよう)という趣旨の番組が毎年ありますが、障害者の間や障害者に関わる人の間では評判は悪く、私も現実とはかなり違うと思って見ています。昔は障害を克服しないと社会で活躍できなかった時代でした。それが私の子供のころで、当時は障害があると「当事者やその家族が頑張れ」という時代で、今ほど障害者も社会に出られなかったので番組で取り上げて伝える意味はあったと思います。

でも、時代が変わりバリアフリーやユニバーサルデザインという障害は「当事者やその家族が克服するものではなく、社会全体でカバーする」ようになりました。昔は障害に立ち向かって克服するしか自分らしく生きる道がなかったけれど、今は障害を受け入れたら自分らしく生きられる時代になってきました。

その中で健常者と同じことをすることが自分らしさに繋がり幸せだろうか?と考える障害者が最近増えてきたこともあり、番組の評判が余りよくありません。良い方向に社会が変わってきたことは確かで、障害があるからこそできることが最近増えてきた気がします。

人は、現状維持や1%でもよくなる可能性があれば障害に立ち向かって頑張りますが、万に一つの可能性では頑張れないものです。それでも昔は頑張るしか道がありませんでした。私は生まれつきの障害なので、今は障害を受け入れて私にしかできないことをしながら暮らしていけるようになってきました。でも昔は障害に立ち向かう障害者がテレビで紹介されると、「障害は努力と根性で治すものだ」という社会のイメージが付き、「障害を受け入れ社会全体でカバーする」という考え方が日本ではかなり遅れた気がします。

努力と根性で障害が治る可能性があれば誰でもします。中には治る障害もありますが、それを強調して社会に伝えられると「障害者は真面目で努力する人」というイメージがついてしまいます。障害があっても健常者と同じように色んな考え方や個性があるのに、障害があるだけで人格が決まっている気がします。今では障害があっても一人一人の考え方が尊重される時代に変わって来たけれど、まだまだ精神障害とかの一部の人のイメージで人格が決められる障害も残っています。まだまだ偏見や誤解が多い社会なので障害者として見ないで「一人の人間」として見れば偏見や誤解はすぐに無くなると思います。

事故や事件があるたびに「万が一」の障壁が社会の中に築かれ、障害者が関わりにくい社会に変わってきた現状があります。障害者のイメージは変わってきたけれど、この万が一という障壁が共生社会への足かせになり、危険なことは生きてる限りつきものなのに、障害者というだけで万が一の障壁が凄く高いときが今もあります。万が一の障壁がたくさんでき、障害者や主張が変わった人は受け入れられにくい社会になってきたのも現実ですが、障害者のイメージが変わり社会と関わりやすくなったのも現実です。安全を求めすぎると社会に入れない人も出てしまうことを知ってほしいです。

「夢を叶える145」ライター宮村孝博
1974年10月22日 誕生
1980年 城山養護学校小学部(現在城山特別支援学校)に入学(丁度その前年に、障害者の義務教育が開始)
1992年 城山養護学校高等部商業科卒業。と同時に、父が運営する関金型に就職。母の手を借りながら、部品加工のプログラムを作成。
2003年 父が亡くなり失業。母も足の難病に罹り、障害者二人暮らしが始まる。
2006年 「伝の心」と出会う。
2017年 「夢を叶える145」ライターデビュー 「チャレンジド145」プロデュース
趣味、囲碁、高校野球観戦
春と夏の甲子園の時期はテレビ観戦のため部屋に引き篭もる
1974年10月22日 誕生
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