終末期を考える-看取りに慣れはなし-

Opinionsについては、大学の同期の先生から投稿を勧められたのをきっかけで、医者としての想いを投稿させていただくことになりました。ある時から「終末期を考える」というお題を頂き、何かしらの想いを伝えたいと投稿を続けさせていただいています。当然、「終末期」ですから、人生の終わりを迎えようとしている時期の話であり、看取る立場の医療者としての想いを書くことが多かったように思えています。こうしたことから、私の原稿を読んでいただいている方の中には、私たち医療者、とくに看取りに関わる立場の人間は「人の死」に慣れているのだろうと思っておられる方もあるのではないでしょうか。

医者の中にも人の死を忌み嫌い、そうした場に立ち会わなくて済む業種を選ぶ人もいるようです(これがまともな感覚かもしれませんね)。実は、一口に「医者」と言っても、厚生労働省の医系技官など医師免許を持ったうえで行う純粋な事務的業種もありますし、医者にはなったけれど人との接触が苦手で患者さんと接するのが嫌だという医者もいるものです。また、取り扱う病気によって死亡率の低い科目もあるわけで、私など、そんなことは考えないまま手術の世界に憧れて外科医になったために、結果的に確立の高い仕事をしていることになっています。もっとも、医療が人を救い、生命を維持していくことを第一義としていると考えれば、「死は医療の敗北」と捉え、医療人として避けたいと考えることも仕方ないと言わねばならないのかもしれません。現実に、私の時代には医学部の授業でも、法医学などの授業を除いては、「人の死」に関してはあまり扱われていなかったと記憶しています。ただ、最近の「働き方改革」とやらで、科目を選ぶ基準が「9時5時」などといった「勤務時間」を優先して決められることに比べれば、まだ良かったのかもしれません。

一方で、世の摂理として、生命には限りがあることから、たとえ病を得ずとも「老衰」としての死が訪れることは避けられない事実です。人の死を確認することがその任務の一つとされる医師であれば、看取りも医療の中の立派な行為であり、その立場から逃れられることはないということにもなります(と考えています)。そのため、多くの一般的な医者であれば、関わる数に多寡はあるにせよ、人の死もまた医療の中の一つと受け入れなければならないのが現実です。ただ、お一人お一人の最期には、そこに至る経過は勿論のこと、ご家族との関係性などを含めると、ひとつとして同じ「最期」はないわけで、その都度、新たな対応をしなければならないということです。

さて、「慣れはしない」とはいうものの、経験を重ねていくうちには、「対応能力」の向上はみられるようではあります。要は、「看取り」もまた、そこまでに実施してきた医療の延長上で最後に訪れる医療行為の一つとして、こなしていくことになってきます。こう書いてしまうと「なんと味気ない」とご批判を頂くのかもしれませんが、遺されるご家族への配慮や、それまで手を尽くして共に医療を行ってきてくれた仲間への感謝の気持ちを大切にしながら、お見送りするのも自分の役目と承知して、より良い看取りができるように努めています。余りに感情移入することなく、その責を全うすることが求められているとも言わねばなりません。そうした仕事に徹したうえでなお、時に、後に引きずるようなことが起こるのも人間故の事なのでしょうが、経験を積むことで、良い意味での「割り切り」、「切り換え」ができるようになるとでもいうことになるのでしょうか。

そうした、良い意味での「慣れることはない」行為の中で、そのことをより鮮明に気付かせてくれることが、何年かに一度起こるものではあります。それは、若い世代の患者さんを看取るという、医学的にはやむを得ないと頭では理解できようとも、「何故この歳で」と胸の辺りがざわついてきて、一般の人たちと同じ想いで苦しむことになるためです。このことは、自分が若い時には当然、その多くが自分より年上の方々であり、あまり深くは考えなかったのだと思います。しかし、次第に自分と同年代の方々をお見送りすることになり、さらには、自分より若い方を見送ることになってくるわけで、もっと何かできたのではなかったかと自分の不甲斐なさに打ちのめされつつ、自分の対応を直すことになっています。

今年に入ってそうした方が続くことになり、書くことになっているのですが、なおさら気が滅入るというか、自分が行っている仕事を恨めしく思うことになりました。そのお一人は、三十代後半の男性でしたが、遅い結婚でお子様も小さく、お子様は自分の父親に何が起こっているのかを理解できないままでいる様子でした。これを目の当たりにすれば、いかに冷静でいようとしても、断腸の想いといったことになりました。

まだまだ修行が足りないというのか、あるいは、こんな修行ならしないほうが良いというのか、今はまだ言葉がありませんが、皆さんはどのようにお感じになるのでしょうか。要は、こうして「慣れるものではない」ということになりますが、むしろ「慣れてはいけない」ことだと自分に言い聞かせています。

ところで、葬儀に参列した折などに、葬儀屋さんやお経をあげておられる僧侶様も、「慣れるのだろうか」と思いはしますが、最後の想いは同じなのではないかと(ちょっと期待を込めて)想像しています。

医療法人 寺田病院 院長板野 聡
1979年大阪医科大学を卒業後、同年4月に岡山大学第一外科に入局。
専門は、消化器外科、消化器内視鏡。
現在の寺田病院には、1987年から勤務し、2007年から現職に。
著書に、「星になった少女」(文芸社)、「伊達の警察医日記」(文芸社)、「貴方の最期、看取ります」(電子書籍/POD 22世紀アート)、「医局で一休み 上・下巻」(電子書籍/POD 22世紀アート)。
資格は、日本外科学会指導医、日本消化器外科学会指導医、がん治療認定医、三重県警察医、ほか。
1979年大阪医科大学を卒業後、同年4月に岡山大学第一外科に入局。
専門は、消化器外科、消化器内視鏡。
現在の寺田病院には、1987年から勤務し、2007年から現職に。
著書に、「星になった少女」(文芸社)、「伊達の警察医日記」(文芸社)、「貴方の最期、看取ります」(電子書籍/POD 22世紀アート)、「医局で一休み 上・下巻」(電子書籍/POD 22世紀アート)。
資格は、日本外科学会指導医、日本消化器外科学会指導医、がん治療認定医、三重県警察医、ほか。
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