責任の所在

ドイツで暮らす私は、自分の子供たちの学校生活を観察しながら、よく自分の日本の中高時代を思い起こした。私立の女子校だったせいか、いろいろな規則があった。真面目な生徒だった私は、長すぎも短すぎもしないスカート丈の制服を着て、分厚い鞄を片手に、寄り道もせず学校と家を往復していた。当時の私は、規則を当然なものとして受け止めていた。

私の二人の子供たちはドイツの学校に通ったが、彼らの学校生活は私のものとは大きく異なっていた。決定的な違いは、「規則」がないことだった。学校生活に必要な最低限の規則(例えば、授業開始終了時間や欠席届)があるぐらいで、髪型や服装、持ち物についての規則や寄り道禁止や映画館への子供だけでの立入禁止というような規則もなかった。毎日、自分の気の向くままの服装と髪型で学校に通う子供たちを見ながら、私は再び考えることになった。

 “なぜ、日本の学校には多くの規則があるのだろう?”
 ドイツの子供たちを見ていて思ったが、制服もなく好きな髪型で学校生活をおくっても、別に問題が起こるわけでもないし、学業に支障をきたすこともない。他人に迷惑がかかるわけでもない。そもそも髪の毛の色は茶、赤、金、黒と様々であるし、天然パーマも多いから、統一すること自体不可能であろう。

また、学外の生活に関する規制もないので、子供たちだけで活動範囲を徐々に広げ、数々の経験を積んでいった。時には困ったことや、ハラハラすることもあったが、子供たちは相応に対処していった。それらの経験は、彼らにとってむしろプラスになっている。

ドイツの学校は規則なしで機能し、日本の学校は規則を必要とする。日本の子供もドイツの子供も同じようなもので、子供たち自身に違いがあるわけではない。それならば、各社会の考え方の違いに原因があるのでは? 「責任の所在」について、私は考えるようになった。

ドイツのニュース番組を見慣れて気づいたことがある。それは報道の仕方であるが、ドイツでは個人的な事件が起こった場合、事件があった事実が報道されるだけである。他方、日本では事件の内容に加えて、当人及び当人の周囲についてまで報道される。

例えば、ある中学生が問題を起こした場合、当人を理解しようとするためか、家族や通っている学校にまでも焦点があてられる。近所に住む人たちはインタビューされ、当人及び家族について聞かれる。世間の人々は、事件が起こったのは「親の育て方が悪いから」「学校がしっかりしていないから」と、ごく普通に口にする。しかしこれでは、事件が起こったのは、家族や学校に問題があったからのように聞こえるし、漠然とそう思ってさえいるのではないだろうか。責任を問うまではいかないにしても、家族や学校は漠然と悪い印象を受けるように感じられる。

私は昔、「連帯責任」という考え方に不満を抱いていた。

中学校の合宿にて、夜騒々しかった部屋の全員が、翌朝「連帯責任」ゆえに掃除をする。生徒から事情を聞くこともせず、一方的に全員を罰する。床を雑巾がけしながら、納得できなかった。

「責任」は、その行為の本人が負うべきものだと私は考える。本人が未成年者の場合は親の責任も問われるだろうが、兄弟や学校には責任がない。学校の責任とは、担任の先生、校長及び教頭先生を指すのだろうか。先生に全生徒の責任まで求めるのは、無理な話である。(事件の現場が学校であれば、話は違ってくるだろうが)ある個人の責任を周囲にまで求めると、周囲はとても敏感になる。責任を問われるまでいかないにしても、イメージダウンするのは目に見えている。世間の評価は大きな力を持つ。それを避けるために、学校のみならず、社会の至る所に規則がつくられることになる。

幼稚園や小学校では、子供たちにとって危険がありそうなことは、最初から規則で持って禁止してしまう。子供たちが怪我をしないようにという配慮からであろうが、その反面「責任を問われては大変」という心理も影響しているように思う。中高校では、生徒が非行に走らないようにと、あらかじめ規則をつくる。制服は学校の看板のようなものである。その制服姿の生徒が、茶髪でピアスをしていれば、世間は「不良」と見るだろう。不良生徒がいれば学校の評判が悪くなる。生徒の外見まで統制する規則が必要になってくる。誘惑のありそうな場所は、事前に規則で立入禁止にする。生徒を守るためであると同時に、学校が事件に巻き込まれないためでもある。

日本に久しぶりに帰ると、自分で自分を気を付けていなくても事が運ぶような錯覚に陥る。電車が到着する度に、「危ないので白線の後ろまで下がるように」と注意してくれるし、「駆け込み乗車」の危険性も知らせてくれる。

人間は自分で考え、判断する能力をもっている。年齢相応に気を付けることもできる。他人への配慮は大切であるが、それに慣れ過ぎると居心地のいい反面、知らず知らずのうちに自主性を手放してしまうことになるように思う。日本では「事前に危険を回避しよう」とするあまり、社会の至る所に予防線を張り、人々を縛り付ける結果になっているように見える。特に子供たちの世界がそうではないだろうか。

規則が多い社会は、息苦しい。敏感な子供たちは、大人以上にそう感じていると思う。日本の子供たちは、最初から正しいことを教えられ、それに従うよう求められる。大人の言う通りにやっていれば、失敗をすることなく大人になれるだろう。しかしながら、失敗を経験せずに大人になることほど恐ろしいものはない。失敗をしたことがないから、挫折感も失望感も味わったことがない。失敗を正す経験もしたことがないから、その際に必要な勇気や決断力も必要としなかった。ますます失敗を恐れて、憶病な大人になる。

子供の時の失敗はたかが知れている。小さな失敗を自分でして、その失敗に伴う感情を味わう。そして失敗を自分で正し、また一歩進む。これを繰り返しながら、子供は自信と勇気をつけ、自分に誇りを持つようになる。少子化問題が深刻化する中、その子供たちが登校拒否になっている現状では、日本の将来が危ぶまれる。日本の子供たちが必要としているものは「規則」ではなく、自分を試す空間と大人の度胸であろう。

 

ドイツ在住阿部プッシェル 薫
1987年東京女子大学卒業後、日本を一度外から見てみたくデュッセルドルフに就職先を決める。日系企業に勤務の傍ら、趣味の音楽活動を通じてドイツ社会に友達の輪を広げる。その後ドイツ人男性と結婚、2児を出産し、現在もドイツ在住。子育て中の体験を契機に、自分の価値観を見直すようになる。ドイツ社会を知れば知るほど日本社会の問題点が見えるようになり、日本の皆さんへメッセージを送りたく、執筆活動を始める。
1987年東京女子大学卒業後、日本を一度外から見てみたくデュッセルドルフに就職先を決める。日系企業に勤務の傍ら、趣味の音楽活動を通じてドイツ社会に友達の輪を広げる。その後ドイツ人男性と結婚、2児を出産し、現在もドイツ在住。子育て中の体験を契機に、自分の価値観を見直すようになる。ドイツ社会を知れば知るほど日本社会の問題点が見えるようになり、日本の皆さんへメッセージを送りたく、執筆活動を始める。
  • 社会福祉法人敬友会 理事長、医学博士 橋本 俊明の記事一覧
  • ゲストライターの記事一覧
  • インタビューの記事一覧

Recently Popular最近よく読まれている記事

もっと記事を見る

Writer ライター