認知症の記憶障害について

5月8日の日経新聞では、「認知症の患者数が2030年に推計523万人に上ることが、厚生労働省研究班が8日示した調査で分かった」と報じている。その他の各紙も概ね認知症の恐怖を表すような報道である。しかし、今回の厚労省発表では、前回調査の認知症数と今回の調査を比べると、驚くべきことに、将来の認知症数の推計が大幅に下がっていることに気づく(図1)。例えば、今回の調査では2040年に高齢の認知症患者推計が584万人に対して、前回の調査では2040年に802万人に達するとしてきた。前回と比べて認知症数の大幅な減少である。802万人から584万人への低下は、前回の調査に比べて27%もの減少となっている。この望ましく、歓迎すべきことについて、各紙は殆ど触れず、認知症の蔓延を煽るような記事が大半となっている。付け加えると、欧米諸国でも認知症患者の減少傾向が見られる。この意外な傾向は、認知症数の絶対的減少かもしれないが、認知症の診断が本人や家族の訴え、症状の観察のみからなされ、ガンや肝疾患のような生理学的あるいは病理学的診断ではない事に起因する可能性も大きい。

(図1)厚労省資料より筆者作成


マスメディアで広まった認知症の恐怖は、医療機関への受診や、介護施設への依存、そして、認知症予防のためのサプリメントや薬の需要を増加させる。多くの人が高齢になると物忘れが強くなり、あるいは、思い出すことが困難になり、認知症ではないかと疑心暗鬼になる。認知症の恐怖を煽るような報道は多くの人から注目される。しかし、認知症は簡単に多くの人に訪れるわけではない。そこで、認知症で最も問題となる記憶障害とは何かについて考えてみよう。

まず、記憶には、記憶を定着させる「記銘」と、その記憶を「保持」すること、そしてその記憶を思い出す「想起」の過程がある。一般に記憶障害ではないかと、自分や身近な人を疑うのは、「想起」障害である。会った人の名前を思い出せない、有名人や俳優の名前を思い出せないなどのたぐいは、「想起」が出来なくなった現れである。ただし、認知症は「想起」の障害を指しているわけではない。認知症は、記憶を定着させる「記銘」の障害である。もし、何らかの記憶、つまり何らかのエピソードを記憶する場合において、「記銘」の障害があれば、そのエピソード自体が記憶の中に存在せず、思い出すかどうかの問題ではなくなるのだ。例えば、1年前に〇〇さんに会ったとする。認知症では、〇〇さんにあった事自体があなたの中で存在しないことになる。〇〇さんの名前を思い出せないことではないのだ(ただし、〇〇さんの存在があなたの中で軽い場合には、認知症でなくても、会った事自体を記銘しない場合もある)。そうすると、大部分の人にとっての、物忘れ(想起障害)は単に名前を思い出せない程度のものとなり認知症とは縁遠いものだ。

記憶の分類でよく使われるのは、「エピソード記憶」「意味記憶」(この2つを陳述記憶という)「手続き記憶」の分類だ。「エピソード記憶」は、過去にあった事柄を単純に記憶していることだ。例えば、10年前に〇〇さんは、このようなことをしたというエピソードは、記憶している人もいるし、全く記憶にない人も居るだろう。エピソードは一般に遠い出来事は忘れられ、近い出来事はしっかりと記憶に留められる。常識的に多くの人がそのエピソードを記憶しているのに、当人が全く記憶していないことは少ない。この場合も、想起出来ないのか、もともと記銘がないのか問題となり、想起出来ない場合は認知症とは言わない。つまり、何らかのヒントを与えると思い出すものだ。しかし、いくらヒントがあってもそのエピソードを全く思い出すことが出来ない場合にはやや不安となる。認知症の人が、近時記憶(最近の記憶)を失い、遠隔記憶(昔の記憶)を覚えているのは、その人が認知症になった以降の記憶が記銘できないと考えると容易に理解できるだろう。しかし、前述のとおり、エピソードを記銘しているかどうかは、そのエピソードがその人の生活において、どの程度重要かどうかによって記銘の程度は異なる。また、人によってエピソードを異常に記銘出来る人もいるらしい。

認知症の場合、一般的には記銘の障害であり、想起の障害を指すのではない。従って、思い出せないもどかしさは、認知症とは全く関係がない。認知症を診断する場合、エピソード記憶の能力にも個人差があるので、一般の人が記銘しているかかどうか分からないようなものを対象にすべきではない。例えば、次のようなテストが簡単で有効である。午後1時にテストを行う場合、昨晩の夕食のメニューはなにかと問いかけること、すぐ直近の(1時間前の)昼食のメニューを問いかけることだ。昨晩のメニューを思い出せないのは、はたして記銘障害か想起障害かは分からない。しかし、1時間前のメニューを思い出せないのは、明らかに記銘障害と言えるのである。

認知症の早期発見が求められているが、認知症の場合、がんと異なり、早期発見したからと言って、確実に治療できるわけではない。その反対に、早期発見をしようとして、認知症の恐怖心を煽り、生活自体を混乱させる危険は大きい。認知症の場合、早期発見の有用性とその弊害を十分に理解することが必要だ。

公益財団法人橋本財団 理事長、医学博士橋本 俊明
1973年岡山大学医学部卒業。公益財団法人橋本財団 理事長。社会福祉法人敬友会 理事長。特定医療法人自由会 理事長。専門は、高齢者の住まい、高齢者ケア、老年医療問題など。その他、独自の視点で幅広く社会問題を探る。
1973年岡山大学医学部卒業。公益財団法人橋本財団 理事長。社会福祉法人敬友会 理事長。特定医療法人自由会 理事長。専門は、高齢者の住まい、高齢者ケア、老年医療問題など。その他、独自の視点で幅広く社会問題を探る。
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