ブッダは、『人生は「ドゥッカ」であり、「ドゥッカ」を消滅させることが人生の目標』と言う。「ドゥッカ」は日本語では「苦」と訳されているが、苦しいことのみを「ドゥッカ」というわけではない。人生には、苦しいことも多いが、楽しいこともある。人生は楽しいことだ、と考えている人に「ドゥッカ」の日本語訳である「苦」を当てはめることは出来ない。「ドゥッカ」とは、苦しいことも楽しいことも、すべて含む考え方である。しかし、その中心には、「無常」という現実がある。すべての人間は、楽しくても、苦しくても今の状態がずっと続くわけではなく、いずれ「死」によって終末を迎えることをわかっている。これが「無常」である。従って、普通の意味での苦しみが「ドゥッカ」ではなく、無常なるものがすべて「ドゥッカ」なのである。
恋人と語らう時、親しい信頼する友といる時、成功して周囲から称賛される時、人間は幸せを感じる。しかし、その幸せはいずれ終わる。恋人との離別、親しい人の死、事業の失敗、失業など、悲しみが押し寄せることがある。しかし、悲しいこともいずれ終わり、新たな幸せが到来することもある。結局、悲しみを乗り越え、さらに幸せを追い求めても、いずれ終末(死)が訪れる。この考えは、多くの人を不安にする。多くの人は考えることをそこで止める。しかし、「ドゥッカ」が解消したわけではない。そこで、不安を避けるために「神」を作り、死を回避するために死後の世界を想像し、「魂」を生み出したのが、すべての宗教に共通する考えである。これらは、かつては人々を救うことに成功したが、科学が一般的になった現代で、通用するかどうか疑問である。「無常」はそれほど厄介なものなのだ。
B・R・アンベードカル(※1)によると、「ドゥッカ」には3つの面があるという。第一に、普通の意味での苦しみは、死別、仕事がうまくいかないこと、人間関係、貧困などである。第二に、物事が移ろうことによる苦しみは、楽しい時間の終焉、愛していた人との別れ、事業の終了など、人生には一定のことが永遠に継続することがないと理解することだ。しかし、三番目の条件付けられた生起としての苦しみは、理解することが難しいかもしれない。条件付けられた生起とは、人間には独立した個人や自我があるのでなく、すべてが因果関係(原因と結果)によって決められているということである。人間は個人という人格が前もってあるのでなく、外部の刺激に沿って反応する体の諸器官があり、それぞれの機能をもっている。例えば、視覚は外部のものを認識して判別する機能を持つ。これは、外部からの光に反応している器官に過ぎない。同様に聴覚や味覚も、あるいは、心に浮かぶものを認識する場合も同じように、何らかの原因となるものに対して、諸器官が反応しているにすぎないのである。またそれらを認識し、評価する器官もある。これらは、複雑ではあるが、自動的に、原因と結果の法則に従っている。不思議なことに、それらの諸器官が統合され、「私」が出現する。しかし、「私」を探すことはできず、実体が不明瞭だ。「私」というもの全体は、因果律によってつくり上げられているのだから、探しても見つからないだろう。相互に依存する要素が集まって初めて私という考えが誕生する。しかし、このつくられた「私」は、単にそれぞれの器官が集合するときにできあがるものなので、苦しみはあるが、苦しむ主体はない。脳の中に小人(ホムンクルス)はいないのである。
このようにすべて因果関係で世界が成り立っていると考えれば、ひたすら欲望を生み出す渇愛(タンハー)が「ドゥッカ」の大きな原因となっていることがわかる。ただし、すべてのものは、相対的、相互依存的であるとすれば、渇愛も他の何らかのものに由来して生起するのである。すなわち、無知から来る誤った自己の認識に依存している。
ブッダは、次のように述べている。「世界は物質に欠乏し、物質を欲しがり、渇望の奴隷と化している」と。生物は、遺伝子的に生き残るための欲望を植え付けられている。欲望が強いほど、生き残る確率が高いとも言える。人間はこの様な欲望の結果、高度な脳を獲得し、高い文明を作った。その結果、人間は周囲の環境を破壊するようになり、地球を変えるまでに至っている。いまこそ、人間が持つ欲望(渇愛)から逃れる必要があるのではないか。「ドゥッカ」の本質は、「ドゥッカ」の中にあるのである。
※1 ビームラーオ・ラームジー・アンベードカル:インドの政治家、思想家であり、反カースト(不可触民改革)運動の指導者。カースト制度の最下層(ダリット)の家庭に生まれ、同国で長く続く身分差別の因習を打破するための活動に尽力したほか、死の2か月前に約50万人の人々と共に仏教に集団改宗し、仏教復興運動を始めたことで知られている。
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