ブッダは、神や魂という宗教でおなじみの要素を排除した。では、人間が最も恐れる自然の脅威や死について、神や魂の考えを持ち出さずどのように解決したのだろうか?
魂の考えのもとになるのは、移り変わる現象世界の背後に、人間という変わることのない物質、即ち恒常的、永続的な実態があるということである。いくつかの宗教ではそれぞれの人に神によって創造された魂があり、それは死後、天国または地獄に行き永遠に存在するとされる。あるいは、完全に浄化されるまで生死を繰り返し、最終的には神やブラフマン(※1)と一体化される。この場合、人間の魂や自己が、思考し、感じ、善悪の行いに対する報償、処罰を受ける主体である。
これは人類が、周囲の環境と整合性を見つけるための進化の過程で生じた脳の発達と大きな関係がある。周囲の環境からの影響を調整するために、進化は大きな役割を果たしている。周囲の環境に対する条件反射的適応は進化的に低いと考えられ、脳の発達に伴って生じる行動は、周囲の環境との関係をより円滑にする。その過程で、「自己」という概念が生まれた。「自己」は生き残るため、進化的に都合の良い産物だったのだ。魂は「自己」の形成から必然的に生まれる。「自己」が死によって消失するのは不都合だからである。
仏教はこのような魂の存在を否定する点で、宗教の中でもユニークだ。ブッダによると、自己の概念は実体に該当しない想像上の誤った概念である。しかし、人間は自己保存の欲求に従って永遠に生きる不死の魂をつくり、熱狂的にしがみつく。ところが、自己自体を否定すると、魂はその居場所を失う。
自己を否定するためには、自己が成り立っている世界が虚構的なものであると認識すれば良い。映画「マトリックス」の中で、「モーフィアス」は、主人公の「ネオ」に、青い薬か赤い薬か、どちらかを飲むように促す。現実のように思われる出来事は、マトリックス(AIが作った仮想世界)でプログラムが作った虚構であるが、その虚構の中で幸せに暮らすことを選ぶのなら青色の薬、真実の世界を見たければ赤色の薬を飲む選択をさせる。ブッダの強いる選択は、赤色の薬を飲むことである。
魂の否定が人間の利己的欲望に逆らうものであることも理解しなければならない。進化によってつくり出された「自己」が実は虚構であり、多くの実体に関する「自由意志」は乏しい。そしてほとんどのことは物事の「因果(原因と結果による連鎖)」によって生じることをブッダは知った。つまり、「自己」がなければ、「無我」ということになる。ブッダは、自分が理解したこの「無我」という考えを世間に説明するのは、不可能ではないかとも考えた。それほど人間は「自己」を中心に考え、行動しているので、「無我」の認識は難しい。
人間は、世界が因果関係で成り立っていることを認めつつも、「自由意志」の余地が大きいことを示したいと考えるが、果たしてそうだろうか?物事の大部分が因果関係による運命的な糸で導かれるとすれば、人間の実体は「現在」にしかないことになる。「現在」をしっかりと把握し、生きていくことが最も重要なことになるのだ。相撲取りのよく言う「一日一番」つまり、「将来のことは考えず、毎日を全力で勝負すること」につながる。「自由意志」は現在を生きるためには必要だが、過去や未来は因果関係によって出来上がることが多いことを理解すべきだろう。
我々は、科学が進歩した結果として、将来の予測を頼り、その予測のもとに生きようとしている。これは因果の糸が目に見える形に現れたものである。特に短期的予測は、人間の行動を大きく左右する。将来を予測するのは、自分にとっての損得を考えてのことである。しかし、ブッダの言うように、現在にこそ真実があり、将来の予測は「参考までに」して、因果の網を無視し、現在を精一杯生きる必要もある。予測は持つが、予測に左右されない行動も必要なのである。それには、赤い薬を飲み、真実の「現在」を生きるのだ。予測に従わない生き方が多少のトラブルを生じても、それらは因果の糸に従ったものなのだから。
※1 ブラフマン:ヒンドゥー教またはインド哲学における宇宙の根理。自己の中心であるアートマンは、ブラフマンと同一(等価)であるとされる(梵我一如)
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