わが国の認知症対策~二つの大愚~

昨夏はわが国の認知症対策について大きな禍を残しかねない二つの出来事があった。「認知症基本法成立」と「超高額バイオ薬の承認」である。筆者は90年代から訪問看護ステーション所長や認知症グループホーム等の統括施設長として、認知症ケアに永らく携わってきた。2000年の介護保険制度発足時には、横浜市介護認定審査委員として千数百人の認定に携わった。一方で先端バイオ創薬ベンチャー役員として、神経領域の遺伝子治療や再生医療関連の先端研究調査にも携わってきた。認知症は治癒しないが、ケアが良ければ穏やかに楽しく暮らすことができる。また、リスク因子が明らかであり予防もある程度は期待できる。国や行政はケアと予防、認知症対策の現実解に目を向けるべきだ。

一番目の愚は、認知症基本法から「予防」の文言を外してしまったことだ。

認知症基本法は、認知症一千万人時代に国や自治体が為すべきことを明確に定める根拠法となる。特に認知症のリスク因子が疫学的に明確になっている今、予防そして発症早期から重症化、看取りまでのシームレスな施策を構築することは重要である。

脳卒中はかつて死因1位の国民病だったが、予防の啓蒙により死因3位以下に後退した。予防啓蒙は重大疾病の減少に確実に寄与する。認知症介護の困難さと介護者の重い負担を考えれば、その予防は重要である。

ところが、今回の法案策定にあたり「予防」が条文からほとんど削除された。「予防とは、なってはいけない悪い病気のようではないか」と「大きな声」があったという。そして政権与党はその大きな声に屈した。

認知症リスク因子はこれまで数十年の地道な統計、疫学的研究でほぼ明確になっている。認知症手前の軽度認知障害(MCI)なら、適切なケアと本人の努力で改善し得ることも知られている。認知症基本法から「予防」が外れると、予防的施策の法的根拠がぐらつき、現場は予防的施策が行いづらくなるかもしれない。

二番目の愚は、超高額バイオ薬レカネマブを認知症治療薬として承認したことである。言い換えると、超高額の医療費負担が国民、特に将来世代に課される。

レカネマブは抗体医薬である。「認知症患者の脳内にβアミロイド蛋白が蓄積している。それが原因に違いない。だからそれに抗体を取りつかせて免疫に認識させれば除去できて治るだろう」という「βアミロイド仮説」に基づく。抗体は化学合成できないのでバイオテクノロジーを駆使して製造するため、超高額になる。

ところがβアミロイドが蓄積しても認知症にならなかった例も多数知られているし、一昨年βアミロイド仮説の原点となった論文の捏造疑惑がサイエンス誌で提起された。超高額の抗体医薬を開発するエビデンスが揺らいでいる。なお本稿推敲時に先発薬アデュカヌマブ撤退の報があった。

βアミロイドの蓄積は40歳代には始まっていると言われる。では、そんなに早く予防として年400万円もの薬を死ぬまで月2回点滴し続けるのか? 日本人の平均寿命は男女とも80歳超えているから、40歳から40年、かける400万円は1億6000万円である。サラリーマンの生涯年収は2億6千万円ほど。その大半を費やすことになる。実際には高額医療費制度で自己負担は最大月8万円ほど、しかし逆に「他人がほとんどを負担」する。持続可能なのか。

統計予測のひとつによれば、今後最大で65歳以上の約半分が認知症になると予測されている。後期高齢者増加のためだ。3000万人が年400万円としたら年120兆円、国家予算を上回りGDPの1/5を超える。しかしその効果は「認知症進行を7か月遅らせる」程度でしかない。

ちなみにレカネマブの薬価が一人年間298万円と報道されているが、これは体重50Kgの場合である。今の日本人としてはずいぶん小柄で考えにくい。体重60Kgだと必要量が増え330万円、70Kgなら385万円になる。我が国の全産業平均年収が400万円台前半なので、低所得化が言われる若い世代一人分の年収を超える。

老人医療費無料化は田中政権時に制度化された。高度成長と医学医療の発展そして国民皆保険制度により国民は等しく医療の恩恵を受け、どんどん寿命は長くなった。ところがその結果増えたのがガンであり認知症である。ゆえにこれらは「長生き病」と言われることもある。

認知症は、全ての活動を制御し人格や心の座である脳が壊れる。それを回復させる方法は未だ無い、つまり治せない。長ければ10年以上に及ぶ罹病期間でわずか7か月進行が遅れても、大勢に改善は無い。

わが国では介護保険制度発足以来、認知症グループホームが制度化されている。一棟9人までの小規模なホームで、手厚い介護を提供する。この規模なら住み慣れた町内に普通の住宅のように整備できる。筆者は認知症グループホームの統括施設長経験(とその専門資格)があるが、まさに「認知症ケアの切り札」と実感した。入居者は自宅で生活できないからこそ入居しているのだが、皆、微笑んで、ときに冗談を言いながら、穏やかにのんびり過ごしているのだ。

認知症は人間関係や社会システムも含めた環境との関係性、反応という側面がある。それを専門的な介護により支えケアすれば、誰でも笑って暮らすことができる。その担い手こそ、専門的知識技術を持つ介護福祉士ほか介護専門職である。

ところが介護職は薄給が災いし昨年減少に転じた。需要が急増するのに。介護職の平均年収は夜勤をして身を削っても300万円台であり、全産業平均400万円台前半に及ばない。しかし、レカネマブ一年分の費用で一人一年間常勤雇用できる(正確には少し足りない)、そして一人の介護職は複数の認知症患者に「穏やかに暮らす」ことをケアできる。

認知症グループホーム等の人員基準は入居者3人に対して介護職1人なので、レカネマブの3倍コスパが良い。レカネマブには微笑みや冗談はついてこないし、楽しい美味しい食事タイムもついてこない。それらは人である介護職こその営みである。

レカネマブを使っても結局は認知症が悪化しケアが必要になるから、コスパが良いのは「レカネマブ(代)+介護(費)=7か月罹病期間延長」と「専門的介護(費)のみ」どちらか、自明である。

統計上90代の2人に1人は認知症になり、わが国の実質寿命は90歳近いから、両親の片方に症状が出て当然。運が悪ければ両方認知症になる。しかし、認知症はある程度の予防が医学的に期待できる。ならばまず予防すべきだ。それでも認知症になる人は居る、そのときは社会として適切な医療とケアを提供すべきだ。

このまま長寿化が進めば、多くの人が認知症になる時代がくる。そのような時代に備えるには「町内で暮らし続けられるグループホーム」そして、その担い手である介護職こそを養成すべきである。そして介護職の給与水準改善、労働負荷軽減のための見守りIoTシステムやアシストロボスーツ等のロボティクス活用開発こそ、超高額薬より優先すべき喫緊の国家的社会的課題である。

【参考】

認知症は「予防」から「共生」へ 転換見せた国の基本法
https://news.yahoo.co.jp/articles/b4bc7f062874570b84abc7110f190050eba7b882

「認知症観」変えられるか? 共生社会実現へ、基本法が成立
https://www.yomiuri.co.jp/column/anshin/20230620-OYT8T50088/

アルツハイマー病新薬「レカネマブ」承認へ 原因物質を除去、国内初:朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASR8P555QR8PUTFL00N.html

文京区が認知症の集団検診 エーザイが運営支援 - 日本経済新聞
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC078710X00C23A9000000/

アルツハイマー病の原因をアミロイドβとする重要論文での捏造疑惑の詳細
https://nazology.net/archives/112496

認知症の新しい治療薬アデュカヌマブについて(1) 国立長寿医療研究センター
https://www.ncgg.go.jp/ri/labo/01.html

3割負担でも薬代は毎月9万円以上…12年ぶりのアルツハイマー病「新薬」がもたらす悩ましい現実 実際の投与は「患者の1%程度」か
https://president.jp/articles/-/74213

社会保険料の急騰で現役世代は死ぬ」認知症新薬390万円の自己負担14万円で差額は誰が負担するのか
https://president.jp/articles/-/74362

令和5年全国将来推計人口値を用いた全国認知症推計(全国版)-65歳以上の高齢者層がピークとなる2040年には46.3%が認知症の可能性、共生社会の実現を-|ニッセイ基礎研究所
https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=75566

サラリーマンの生涯年収(生涯賃金)はいくら?
https://www.smbc-card.com/nyukai/magazine/tips/life-earnings.jsp

介護職員の給与、1.7万円増 全産業平均と依然格差 厚労省調査
https://www.asahi.com/articles/ASR6J427WR6HUTFL011.html

介護就労者が初の減少、低賃金で流出 厚生労働省分析
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA205120Q3A021C2000000/

共生社会の実現を推進するための認知症基本法
https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=505AC1000000065

認知症基本法案 衆議院
https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/houan/g19805030.htm

新西横浜街の予防医療ケア研究室 保健師・看護師・元先端バイオ創薬ベンチャー取締役五十嵐 直敬
1995年北里大学看護学部卒。
北里大学東病院、内科クリニックを経て1999年横浜市内で訪問看護ステーション新設、所長。難病ケア、リハビリ、在宅ホスピスに携わり介護保険制度発足時に横浜市介護認定審査委員。2000年に遺伝子治療の可能性を探求し先端バイオ創薬ベンチャー取締役。
その後救急病院、訪問看護所長、介護施設長等を経て外来看護の傍ら2017年より新西横浜街の予防医療ケア研究室としてコンサル等活動。
1995年北里大学看護学部卒。
北里大学東病院、内科クリニックを経て1999年横浜市内で訪問看護ステーション新設、所長。難病ケア、リハビリ、在宅ホスピスに携わり介護保険制度発足時に横浜市介護認定審査委員。2000年に遺伝子治療の可能性を探求し先端バイオ創薬ベンチャー取締役。
その後救急病院、訪問看護所長、介護施設長等を経て外来看護の傍ら2017年より新西横浜街の予防医療ケア研究室としてコンサル等活動。
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