真っ青な空と荒々しい山肌、透き通るような氷河湖。学生時代、スキー部に所属していた私の憧れは、カナディアンロッキーで思う存分滑ることでした。
その憧れだったバンフに、先日行くことができました。いつもならば抜けるように青い空をバックに、荒々しい山塊がそびえ立っているはずなのですが、今回は目の前が真っ白でした。
ブリティッシュ・コロンビア州の山火事の煙が一面に立ち込めて視界はほとんど遮られていたのです。ハイキングに来た人たちにPM2.5の濃度が高いため山登りを控えるよう勧告されていました。
その後カリフォルニアでも同じような山火事が多発し、多くの人命が失われたのはご存知の通りです。自然を前にして、人間の無力さを痛感しました。
今回のバンフ訪問はスキーではなく、ACPELという国際学会に参加するのが目的でした。景色は残念でしたが、肝心の学会の方は大変収穫が大きかったのがせめてもの慰めです。
ここでアドバンスケアプランニングについてご説明をしておきます。
いろいろな定義がありますが、ざっくり言うとアドバンスケアプランニングとは「自分で意思が表明できなくなった時のために、自分の受ける医療処置についてあらかじめ周囲の人と相談して書式に残しておくこと」だと考えていただければよいと思います。
大切なことは自分一人で考えて紙に書いておくのではなく、周りの家族や後を託せる人と共にしっかりと話し合った上で、その結果を分かるように残しておくというものです。同じことを一人で考えて一人で書くこともできるのですが、それはアドバンスディレクティブ(事前指定書)と呼ばれ、アドバンスケアプランニングとは違うものです。アドバンスケアプランニングとは、話し合いのプロセスを重要視して周りの人に自分の生き方を理解してもらうものである、と捉えられています。
私の両親は祖父母を看取った経験から、このアドバンスケアプランニングらしきものを残していました。平成12年のことですから、もうだいぶ前のことです。まだアドバンスケアプランニングという言葉も概念も無い頃のことです。
その頃の私は、若い盛りの外科医でしたから、できることは何でもするというタイプの医療を行っておりました。世の中が皆その方向へ向かっていた時代であったかと思います。新しい薬がどんどん開発されて、がんも治ってしまうのではないかとも思えるような熱気が医療界に満ち満ちていました。
そんな中で私の両親は意思が表示できなくなるとか、自分の力で食事が摂れなくなった時のことを私に相談して書き残しておいたのです。人工栄養、人工呼吸、蘇生処置、効果の期待出来ない化学療法、延命のためだけの手術は行わないこと。痛みを取るなどの緩和的処置は積極的にすることなどが記されています。特にこの頃は、話し合ったことを書き残す定まった書式はありませんでしたが、署名捺印と署名日時を書いて、正式な書類としての体裁を整えています。
私がその後、緩和医療という道に進んだというのも、何かの縁だったのかと今では不思議な気持ちがします。
その後しばらくして父は大腿骨骨折後の肺血栓症で亡くなりました。病気の性質からは、多分苦しかった時間は短かったと思います。母はパーキンソン病で入院中、それほどひどくない糖尿病を指摘されましたが、その治療の血糖降下剤のために低血糖を招き植物状態となりました。呼吸停止を来たしたため、私が病院に駆けつけた際には、挿管して人工呼吸器が装着されていました。
母が人工呼吸を拒否していたことを病院側はもちろん知らなかったので、やむを得ない措置であったかと思います。予期しない低血糖で呼吸停止を来たしたことも救命措置を行った理由であると思います。私であっても多分同じことを行ったと思います。
一度挿管するとそれを抜管するのはなかなか難しいことです。結局気管切開を行い、1年半の間人工栄養を続けることになりました。
母の場合を考えますと、特に緊急の場合どのような医療処置を受けるかは、どのように医療者側に自分の希望を明らかにすることができているかにかかっていると思います。いくら日頃から希望していてもそれが緊急の時に医療者に伝わっていなければ意思を表明していないのと同じなのです。
今回の国際学会では、この緊急時の意思をいかに医療者に伝わる形で遺しておくかということも、問題に上がっていました。アメリカ、カナダでは緊急の際に全ての医療者が患者の緊急時における医療処置の希望について、確認できるような仕組みを作っているようです。
しかし全ての人が話し合ってそれを残しているわけではなく、今後とも啓発活動を続けていくとのことでした。
次の図に示すようにアメリカではアドバンスケアプランニングをインターネットで作成することができるようなサイトがいくつか知られています。医療者と相談しながら完成させるわけです。その中にはアドバンスケアプランニングを説明する動画が含まれていて、理解を深める仕組みになっています。
アドバンスケアプランニングというと、医療行為を制限するための意思表示と捉えてしまいがちですが、考えられる治療を全て行うように指定することもできます。また、アドバンスケアプランニングは医療者に自分の医療について情報を提供するものですので、実際に行われるかどうかの保障はありません。実際の現場では家族や親戚によって、医療内容が変わることもあります。そういう意味でもアドバンスケアプランニングを指定する時には、周囲の家族や医療関係者としっかり相談しておくことが必要である、とされている所以です。
一方で、具体的に相談した内容が医師によって、確実に行われるように指定ができる仕組みも存在します。それがカナダのGoals of Care Designation,GCD(ケアの目標の指定)やアメリカのPhysician orders for life-sustaining of treatment,POLST(集中治療室での治療も行う生命維持治療に対する医師の指示書)です。
例えばPOLSTでは
1. 患者の脈も呼吸も無い時に
● 心肺蘇生をする。
● 心肺蘇生をしない。
2. 患者の脈が有るか呼吸が有る時に
● 苦痛を取る処置は行うが病院への移送は行わない。
● 抗生剤や点滴などの処置はおこなうが気管内挿管などは行わない。病院への移送は必要であれば行う。
● 積極的に気管内挿管を行ったり人工呼吸を行う。病院への移送も行う。必要であれば集中治療室での治療も行う。できる限りの治療を行う。
3. 人工栄養
●人工栄養は行わない。
● 管による人工栄養を短期であれば許容する。
● 長期の人工栄養を望む。
などの選択肢を医師と相談しながら記入し、それがデータとして保存されるようになっています。緊急の場合には、全ての医療従事者が閲覧できるようなシステムが完備されています。この文書は医師の指示書であるため、緊急の場合にはこれに則った治療が他の医療機関に行った場合でも自動的に行われます。
アドバンスケアプランニングを行った結果、残された家族は患者さんの希望を叶えてあげたという満足感が大きいという報告がなされています。医師はあくまで治癒を目指した医療を行い、看護師は患者さんの生活の質を向上させることを目標にした医療を行う、という職種としての信念の違いがあります。この2つの信念は、時として患者さんの治療において対立することがあります。アドバンスケアプランニングで終末期医療の指定があることにより、この対立が解消されて、チームとしてより良い医療が提供できたという報告がされています。
アメリカの医療費は、極めて高額であることが知られています。例えば集中治療室に入室して治療を受けた場合には1日約150万円程度の医療費が請求されます。10日間入院すると1500万円から2000万円かかります。アメリカは医療保険は原則として私的保険ですから、大企業などの従業員や退職者であれば保険会社が払ってくれますが、そのような人ばかりではないのは容易に想像できます。
患者さんがICUで治療を受けて亡くなった後に、その負債を家族が一生涯払い続けなければならない事例が数多くあるのが現実です。アメリカでの中産階級の破産の原因の多くは、思わぬ病気による医療費の負担であることはよく知られています。医療費を主な理由として、医療内容の事前指定が行われているのではないと信じたいのですが、現実的には高額な医療費が医療選択の基準となる可能性があることが予想されます。
カナダは国民皆保険ですから、お金により医療が選択されることはありません。しかしながら、GCDで終末期医療を指定することが勧められています。つまり、カナダでは本人が望まないような医療は避けQOLを高める医療を受けるということが国民のコンセンサスになっているのだと考えられます。医療費とは別の次元でGCDが優れているから実現しているのだと考えます。
現在厚生労働省では、効率的かつ質の高い医療提供体制の構築にあたり、個人の尊厳が重んぜられ、患者の意思がより尊重され、人生の最終段階を穏やかに過ごすことができる環境を整備するための取り組みを進めています。この中にはアドバンスケアプランニングに対する取り組みも含まれています。
これからの日本においても、医療とお金の問題は避けて通れない問題になると思います。その時には医療費を削減するために医療を制限するのではなく、望む医療を行うために医療を選択するのだ、という成熟した議論にならなければならないと思います。アドバンスケアプランニングは自分で自分らしい人生を完成するためにあるのだと思います。
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