医療業界の2つの「幽霊」問題  -「医師の働き方改革」で医療は改善するか?-

2019年12月に中国武漢省で発生し、瞬く間に世界中を巻き込んだ新型コロナウイルス感染症(以下、コロナ)ですが、2020年早々からわが国でも大変な騒動となりました。当初は、感染症病床の不足から、感染者の受け入れができないといった危機的状況がありましたが、政府による補助金の支給に呼応して病床の確保が進み、なんとか医療の体を成したことは皆さんもご存じのとおりです。なにしろ、コロナ禍がはじまる直前まで、2025年を目途に全国の病床数を減らそうとする「地域医療構想会議」が各地で行われ、真っ先に削減対象になっていたのが「感染症病床」でしたので、不安に思っていたことが現実になったといったことではありました。

この病床確保に関して、補助金は頂くが実際にはコロナ患者さんを受け入れないという病床の問題が起こっていました。これは、当初は厳しい審査でコロナ受け入れ病床を認定していたようですが、それではコロナ患者の増加のペースに間に合わないということになり、徐々に審査が緩められていったことに原因があったように思われます。もっとも、国民の安全と安心のためにと、湯水のごとくに補助金を給付する国と、コロナ禍で一般診療も縮小を余儀なくされ収入が減っていく医療者側との思惑が一致したためか、急速にコロナ受け入れ病床が増えていったことではありました。お陰で、これまで毎年赤字であった公立病院のほとんどが黒字化したことは有名な話です(後日談になりますが、コロナの5類への変更で補助金がなくなると、再び赤字になるとあからさまに騒がれたことも周知のことでした)が、そうした中で先の「負」の問題が発生する余地が生まれたようです。

その名ばかりの補助金だけをもらっていた病床が、第一の問題ということですが、その意味合いから「幽霊病床」と呼ばれていました。聞いたことがあるという方もおられるのではないでしょうか。ただ、関係者に慮ってか、すでに政府の判断でこのワードをNGワード(そんなものがあると初めて知りました)にしたそうで、現在は、公式には使えないことになっているそうです。

この「幽霊病床」とは、正式には「コロナ病床として確保したものの、看護師などの不足により実際にはコロナ患者を入院させることがなかった病床」を指しています。確かに、コロナ禍で重症患者が急増していた当時の医療現場では、看護師さんをはじめとする医療者も疲弊し病気への恐怖も相まって辞めていく方があったことも事実ですので、当初の予想に反して、一時的な看護師不足による受け入れが困難になったところもあったと思われます。一方で、事前に看護師などの不足によってそもそもコロナ患者を入院させることができない状態であるにも関わらず申請し、病床確保のための補助金を受け取っていた施設があったということです。こちらの方が、正真正銘の「幽霊病床」というわけですが、早い時期から私の耳にもその類の施設の話が聞こえてきてはいましたが、「よく考え付くものだ」と感心すると同時に、元々人員不足で使えない病床を申請してお金だけもらう計画ですから「それって詐欺でしょう」といったことで、随分酷い話ということではありました。さすがに、最近になって会計検査院が検証を始めていますが、厳しく調べて公表し、返金も併せて処罰の対象にすべき事案と考えます。

さて、第2の「問題」ですが、第1の問題に準えて命名するとすれば「幽霊医師」ということになります。これは来年2024年4月から実施される「医師の働き方改革」によって生まれてくるのではないかと心配しています。

「医師の働き方改革」は、すでに2019年4月から政府主導で始められた「働き方改革」の中の一つですが、いくつかの業種と併せて5年間の猶予が与えられていました。そして、いよいよ来年からの実施となり、具体的な準備や対策が講じられ始めていますが、そうした中でいくつかの問題が指摘され始めています。もっとも、そもそも論でいえば、医師不足が放置されたままの現状の中で、「医師の働く時間を短くする」という改革そのものができるのかと心配していました。そうしたところに、朝日新聞の『医師「宿日直」の実態 働き方改革に逆行』とした記事が目に留まりました(2023年9月18日版)。すでに、私のような院長といった「役職付」は対象にならないと聞いており、早速抜け道が示されているのだと思っていましたが、さらに現場の若い先生方に関しても、「新しい働き方」への対策が講じられつつあるという内容でした。こうしたことは、何かを始める時には、その問題点をシュミレーションしてあらかじめ対策を講じておくということなのだろうと思いはしますが、今回のそれは、どうみても「抜け穴」的なやり方であり、実施前からそうした対策が講じられていること自体に大きな矛盾と問題が発生すると心配されますが、一方では、その用意周到さに感心させられることにもなっています。

その対策が、「宿日直許可」の申請というものです。これは、「地域医療の崩壊を防ぎたい厚生労働省が、病院にこの申請を促している」とあり、先の感想を持ったことでした。この「許可」は、『夜間や土日、入院患者の急変や外来患者に対応するため医師が待機する「宿直」、「日直」の業務内容が軽ければ、特例的に労働時間とみなさなくても良い』というものであり、2024年4月から始まる「医師の働き方改革」では、時間外労働が原則年960時間(月80時間相当)に罰則付きで規制されるのを前に、多くの病院が宿日直許可を申請しているというのです。

こうなると、『実際には働いているのに労働時間とみなされない「隠れ宿日直」が存在することになる』と指摘されており、ある医師は「労働基準監督署は病院の実態をよく把握せずに許可したのではないか。長時間労働の医師が患者を治療すれば、事故も起きかねない。働き方改革に逆行している」と訴えているとも書いてありました。

ところで、とくに病院や診療所が多い都会では、医師不足から現場の診療を大学病院などからの非常勤医師の派遣で維持しているというのが、案外知られていない現実です。逆に、大学病院で勤務する医師や研究を行っている若い医師達の収入は不安定なうえに少ないのが実際で(世間の「医師」に対する認識とはギャップがあるのが現実です)、土日や祝日の宿当直などのアルバイトをしなければならない状況にあります。このため、先に述べた大学以外の病院での診療に非常勤として週の何日かを勤務することで生活の安定を得ることになっています。そこでは「医師不足で診療医が足りない病院」と「収入が不安定で生活に不安がある若い医師達」との間の、絶妙なバランス、持ちつ持たれつの関係があり、わが国の医療現場を支えているということになります。

これから先、「医師の働き方改革」で、大学勤務の医師達が厳密な基準で大学以外での勤務を労働時間としてカウントされるようになると大学での業務に差し障りが生じるため、外の病院への派遣が中止されることになります。では、どうするか。先に書いた微妙なバランスを維持するためにも、改革が実施されて生じる混乱回避のためにも、改革開始に先んじて、先の「許可」を申請するように厚生労働省が促しているということになります。ということは、すでに厚生労働省は、この改革が産み出す混乱を理解しているということになりはしないか。どうも、政治的配慮で制度の不都合なことに対案を示しているようにしか思えないのですが、私だけの思い違いでしょうか。

いずれ、先に書いた「幽霊病床」のように、実際には働いているのに、そこにはいないことになっている「幽霊」扱いの先生方が生まれてくるのではないかと危惧し、「幽霊医師」と命名した次第です。こんな事が、2024年4月以降の改革実施後に、「馬鹿が勝手なことを言っていた」と一笑に付されるのであれば良いのですが、案外、増えていそうに思えてなりません。あるいは、「幽霊」だけに、こうした問題も含めて誰にも見えず、元より何の問題もないとされるのかもしれませんが、それはそれで恐怖であり、さらなる混乱を招きそうではあります。

さてさて、この問題はどうなっていくのでしょうか。この制度が真の意味合いで、わが国の医療を良い方向に導いてくれることを期待しつつ、その行方を観ていきたいと思っています。

医療法人 寺田病院 院長板野 聡
1979年大阪医科大学を卒業後、同年4月に岡山大学第一外科に入局。
専門は、消化器外科、消化器内視鏡。
現在の寺田病院には、1987年から勤務し、2007年から現職に。
著書に、「星になった少女」(文芸社)、「伊達の警察医日記」(文芸社)、「貴方の最期、看取ります」(電子書籍/POD 22世紀アート)、「医局で一休み 上・下巻」(電子書籍/POD 22世紀アート)。
資格は、日本外科学会指導医、日本消化器外科学会指導医、がん治療認定医、三重県警察医、ほか。
1979年大阪医科大学を卒業後、同年4月に岡山大学第一外科に入局。
専門は、消化器外科、消化器内視鏡。
現在の寺田病院には、1987年から勤務し、2007年から現職に。
著書に、「星になった少女」(文芸社)、「伊達の警察医日記」(文芸社)、「貴方の最期、看取ります」(電子書籍/POD 22世紀アート)、「医局で一休み 上・下巻」(電子書籍/POD 22世紀アート)。
資格は、日本外科学会指導医、日本消化器外科学会指導医、がん治療認定医、三重県警察医、ほか。
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