生きやすい社会になるには

この20年間余り一時帰国の度に、私は母国日本がどんどん生きづらい社会になっていると感じてきた。30万人もの子供たちが登校拒否になっているという。この話はまさに子育て中だった私の念頭を離れることなく、常になぜだろうと考え続けることになった。子育てを終えた今、その答えが見えたように思い、私の見解を表明したい。

日本社会では「和」を尊ぶ。子供は小さい時から、周囲に合わせた言動をとるよう躾けられる。周りから外れることは身勝手であり、他人の迷惑になると考える。従って、自分の意思より周囲の思惑を重視して生きることになり、自ずと自らに我慢を強いる結果になる。また日本社会では、年齢の違いによって自然に上下関係が決まる。中学校の先輩と後輩という関係は、社会人になっても続く。大人と子供の関係も同様で、子供は無条件に大人の言うことを聞くものと考える。「和」と「上下関係」で社会の秩序を維持しつつ、更に「規則」で人々の言動は規制されている。学校、会社、公共施設、あらゆる場所に規則があり、人は規則を守る。 

社会がこのように統制されて、時が経つとどうなるだろうか? 上の人に失礼にならないよう、他人の迷惑にならないよう、常に我慢をしているから不満をため、はけ口を求めるようになる。社会全般にいじめが蔓延する。

しかしながら、この日本社会に根付く考え方はそもそも正しいのだろうか?

まず「周囲に合わせる」という考え方の根底には、「人は皆同じ」という思い込みがあると思う。なんとなく「皆同じ」と思っているから、誰もが合わせられると考えてしまうのではないだろうか。しかしこれは明らかに間違いである。人間は生まれながらにして、ひとりひとり異なる。従って、周囲に合わせることは無理であり、不自然である。この明確な事実をまずはっきり認識すべきである。人は異なる能力を持ち、各々の限界がある。自分の限界は自分で試し探りながら知っていくものである。他人が決めるべきものではない。人が自分と他人とを区別することができるようになれば、過労死や自殺、いじめが減るであろう。

年齢の差によって上下関係ができるという考え方には正当性がない。単に早く生まれたか遅く生まれたかの違いであり、この考え方は人と人とが同じ目線で議論をする妨げになっている。「規則」とは、そもそもある時ある人がつくったものであり、人は間違いもするから、規則が絶対に正しいとは言えない。規則の内容の正当性を自分で考えることなく、単に規則に遵守することに熱心になっていると、思わぬ過ちを犯す。

ここで、ドイツで子育て中に目から鱗が落ちた私の体験を語りたい。娘とプレ幼稚園に通っていたある日のこと、歌の時間になり十組ほどの親子が輪になって座っても、ひとりで遊び続ける女の子がいた。私たちが歌い出しても、彼女はミニキッチンで熱心に何かを作っている。彼女の母親は私たちと一緒に歌い、他の母親たちも別に気にする様子もない。しばらくすると、その女の子は遊び終えたようで母親の所へやってきて一緒に歌い出した。

日本でこのような場面だったら、母親たちはどう反応するだろう。女の子の母親は、子供に遊びをやめて一緒に歌うよう言うだろう。子供は遊びの続きをしたいから、母親の言うことに従わないだろう。他の母親たちは「我儘な子供」「躾ができない母親」と思うだろう。しかし実際、子供がひとり遊びの続きをしていても、誰の迷惑にもならないのである。彼女がいなくても歌の時間は滞りなく進む。何でも子供に好きなようさせればいいと、言っているのではない。皆で同じことをしなくとも、事は順調に運ぶという事実を伝えたい。私は「周囲に合わせないと、他人の迷惑になる」という固定観念から、やっと自分を解放することができた。

周囲に合わせることに熱心になっていると、自分のみならず他人にも物事を強制することになる。つまり、「人を尊重する」ことが欠けてしまう。自分の思いと相手の思いは違う。相手に時間を与え、見守るという態度の大切さを学んだ。

ドイツ語と日本語の会話を比較して気づいたことがある。ドイツ語の会話は主語がはっきりしている。他方、日本語の会話ではわざわざ「私は」とは言わない。その代わりに人はよく「普通は」と口にする。「普通はそうしないわよね」と。少し注意をして聞いていると、実に頻繁に「普通」という言葉が使われている。話し手は無意識に口にしているのだろう。しかし人々がこのように会話をしていると、あるたったひとりの人の思ったことが、実際はその社会(グループ)の人たち全員の意見のように聞こえてくる。そして知らず知らずのうちに、社会(グループ)の中に目に見えない「普通」という基準ができあがる。

この目に見えない「普通」という基準は、人々が漠然と想定する統合された価値観になる。しかしその内容はどこかに明記されているわけではない。その場にいる人次第で変わってくる。これは始末が悪い。何をすると「普通」という基準から外れてしまうのかわからないから、人はますます気を遣い、疲れてしまう。

政治的及び宗教的な圧力もなく、民主主義国家である日本。それにもかかわらず、自分たちを日本独自の考え方で縛り付け、誰もが一生懸命に頑張らないと生きていけないような社会にしているように私には見える。大方の人たちは、我慢して生きることに慣れ、時間的にも精神的にも余裕がないから、人生はこういうものだと妥協できるのかもしれない。しかし「普通」枠から外され、苦しんでいる人たちが増え続けている状況は甘受すべきではない。登校拒否の子供たちをはじめ、過労死、自殺と追い詰められた人たちは、その人たち自身に問題があるというより、日本社会の現状に問題があると私は思う。

大人は社会で権力を握る。規則を反故にできるし、子供に対する態度を改めることができる。大人が古来の価値観を見直し、自分の意思に則った言動をとれば、余裕を取り戻すことができるであろう。自分に無理を強いることをやめれば、他人にも無理を強いることがない。人がその人自身として生き始めれば、社会に様々な見方、考え方が生まれ、社会から「普通」という基準が消え失せる。

「子供(年下)のくせに生意気な」と言う人は、反論できる意見を持っていないからである。異なる意見であれば、議論をすればいい。議論は口喧嘩ではない。同じ意見にならないと困るようなことはそれほど多くない。相手に妥協する必要もなく、各々が各々の意見のままでいいのである。付き合いは、行きたい人が行けばいいのである。断られて不快に思うのは、合わせることに慣れてしまったゆえの後遺症であり、ナイーブすぎるのである。

人はひとりひとり異なるからこそ価値がある。自分の人生は自分自身の意思で生きるものだと思う。「いい人」と見られたいからと、涼しい顔で「普通は」と会話をしていては、何も変わらない。社会の姿は、そこで暮らすひとりひとりの手にかかっている。人は自分で考えるほど無力ではない。

ドイツ在住阿部プッシェル 薫
1987年東京女子大学卒業後、日本を一度外から見てみたくデュッセルドルフに就職先を決める。日系企業に勤務の傍ら、趣味の音楽活動を通じてドイツ社会に友達の輪を広げる。その後ドイツ人男性と結婚、2児を出産し、現在もドイツ在住。子育て中の体験を契機に、自分の価値観を見直すようになる。ドイツ社会を知れば知るほど日本社会の問題点が見えるようになり、日本の皆さんへメッセージを送りたく、執筆活動を始める。
1987年東京女子大学卒業後、日本を一度外から見てみたくデュッセルドルフに就職先を決める。日系企業に勤務の傍ら、趣味の音楽活動を通じてドイツ社会に友達の輪を広げる。その後ドイツ人男性と結婚、2児を出産し、現在もドイツ在住。子育て中の体験を契機に、自分の価値観を見直すようになる。ドイツ社会を知れば知るほど日本社会の問題点が見えるようになり、日本の皆さんへメッセージを送りたく、執筆活動を始める。
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