技術の進歩によって、現代人は昔に比べて比較にならないほど、豊かで苦痛の少ない生活を送れるようになった。にもかかわらず、現代人は、不満足・怯え・心配・悲嘆・不安・恐怖・嫉妬・妬み・劣等感などの精神的苦痛をより多く抱えているようだ。これらの精神的苦痛は、驚くべきことに、進化で生き残るために(自然選択)、遺伝子が作り上げた認識の仕組みによるものである。認知能力が発達した結果生じるこれらの感情によって、我々は生き残る割合が高くなり、遺伝子にとっては、次世代に受け継がれる可能性が高まる。しかし、その代償として人間は悩むことになるのだ。これらの悩みが「過度」になる場合、自然に備わった進化に伴う認知システムだからといって、そのまま維持するのでなく、場合によっては変更されなければならない。うつ病に対して認知行動療法を始めたアーロン・ベック(※1)も、血筋が生き延びる代価は生涯にわたる不快かもしれないと記している。
自然選択が作り上げた感情の仕組みは次のようなものだ。足元に紐を見つけて驚き飛び上がるのは、99回無駄なことだが、1回は本当に蛇に噛まれずに済むかも知れない。この場合恐怖は、蛇に噛まれて命を失うことを防いでいる。また、夜中に一人で家にいるときに、何かの物音に不安や心配で眠れなくなることは、稀に強盗を見つけることが出来るかも知れないが、多くの場合、おそらく無駄な怯え・心配に近いだろう。しかし、このような感情はいずれも自分が生き残り、進化の自然選択が遺伝子を残すために作り上げたものである。
この様に、人間の認知システムは、自然選択で遺伝子を残すために、不満足・怯え・心配・悲嘆・不安・恐怖・嫉妬・妬み・劣等感を「過度」に人間に抱かせるようになり、その結果、感情が平静な気持ちを持つことを阻害し、幸せな生活を送るには大きな障害となる。すべて、自然選択に有利に働くため(遺伝子を残すため)であるが、そうすると人間が幸せに生きるためには、自然選択による遺伝子の意向に逆らっても、アーロン・ベックの言うように、自分の内部あるいは外部の環境を「過度」にではなく、正しく認識する必要があるだろう。人間関係においても、他人の行動が自分に「過度」に影響を与えているとの妄想を取り除く、あるいは、他人が自分に敵意を示しているなどの間違った認識を抱くことがないようにしなければならない。進化が作り上げた認識の仕組みを自分が変更する必要性や、「過度」のこだわりを無くする必要性があるのだ。その為の方法はいくつか考えられる。感情が揺さぶられるすべてのものを対象とし、確かなものだけを拾い出す必要がある。これはヒュームの懐疑主義(※2)、あるいは、現象学的還元法と似ている。現在抱いている不満足・怯え・心配・悲嘆・不安・恐怖・嫉妬・妬み・劣等感などが「過度」で不適当であることを認識する必要があるのだ。
これらの「過度」な感情を鎮める方法はないのだろうか? 理性的に合理的に考えることが出来れば、ある程度「過度」な感情の反応を鎮めることが出来るだろうか? しかし、他人が自分の悪口を言っているという妄想に囚われているときに、この妄想はなかなか取り除けない。理性的に合理的に考えろと言われても難しい。自分がコントロール出来るものではない。そこで、発想を変えてみよう。この様な感覚は自分がコントロール出来ないので、自分の所有物ではないと考えてはどうだろう。妄想を自分の外に出すことが出来るだろうか? 自分の外に(自我の外に)出すことが出来れば、ここに一部でも無我の感覚が生じる。自我は、この妄想を自分のものではないこととして自己の外に出す。そうすると自我は縮小する。
(その2へ続く)
(※1)アーロン・ベック;アメリカの医学者、精神科医で、うつ病の認知療法の創始者。うつ病患者の特徴として悲観的な思考(否定的な考え方)を持つことが分かり、こうした認知の歪みを修正する新たな治療的アプローチとしてうつ病の認知療法を考案した。
(※2)ヒューム「懐疑主義」;疑うのは、経験的事実ではなく、そこに設定される因果関係と帰納によるその正当化である。「初めて存在するものには、すべて存在の原因がなければならぬということは、哲学で一般的な基本原則となっている」が、「よく調べてみれば、原因の必然性を証明するためにこれまで提出されてきた論証はどれも誤っており、こじつけである」
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