【多文化共生・岡山#2】日本で苦労もしたけど、たくさん助けてもらった ブラジル出身 セレスチノ・マルレネ ヤソヤマさん

岡山県内の在留外国人は、現在2万9435人。県人口の1.57%にあたる(2021年、岡山県調べ)。その数は年々増加傾向にあり、近年では職場や地域で、外国の人たちと触れあう機会も増えているが、じっくり話を聞ける機会はあまりない。岡山にはどのような外国人が、どのように暮らしているのか。さまざまな外国人の背景や生活、思いを知って相互理解を深めたいと、今回、総社市に住む5人の外国人に話を聞いた。

――ヤソヤマさんというお名前から、日系の方ですか?

私は違いますが、夫が日系ブラジル人でした。
私たち家族は、1991年にブラジルから日本に来ました。1989~90年頃にブラジルで出稼ぎ運動(*)が起き、日系人の夫が先に渡日しました。当初、私は行かなくていいと思っていたのですが、やはり家族一緒がいいということで。

私は、ブラジルにいた時は警察官だったんです。昇進もして、プライドを持って働いていたのですが、当時のブラジルは治安が悪く、犯罪者を相手にする仕事だったので、渡日するための派遣会社に相談に行っても「日本に行ったら逆に仕事がない、追い出されるよ」と言われていました。
でも、別の会社に問い合わせたところ、書類を準備してもらえるとのことで、息子と一緒に日本に来たのが32歳の時でした。
最初に来た時から今に至るまで、ずっと総社市内の同じ部屋に住んでいます。

――お仕事はすぐに見つかりましたか?

派遣会社に紹介してもらった会社で働いていましたが、ある時、理由は分かりませんが、クビになってしまいました。
ちょうどその頃、製造工場で働いていた夫が、勤務中にプレスに手を挟まれる事故に遭い、2年間入院することになりました。その時は本当に大変でした。

ビザ更新までぎりぎりのタイミングで、ビザが切れたらブラジルに帰らないといけない。派遣会社に行って「すみません、今ビザで困っています。夫は入院して、私も仕事がないからなかなか更新できない」と言ったら、その会社のオーナーさんが「正座してくれたら考える」と。私はよく分からなかったけど、仕方なく正座して「ごめんなさい、ごめんなさい」と言って、何とかビザを更新してもらいました。
新しい仕事をもらえるかと思ったのですが、仕事はなく、失業保険のこともわからない。周りにいた日本人の知り合いが「手伝ってあげる、一緒に手続きに行きましょう」と言ってくれてハローワークに行きました。そうしたら、ハローワークから派遣会社に電話が行ったことで、派遣会社のオーナーさんが家まで来て、ものすごく怒られました。

そんなこともありましたが、日本人から助けられることもあったし、いろいろ教わったので、日本には優しい人もいるということが、少しずつ分かってきました。

外国人にはやはり大きな壁があり、仕事を見つけるのは簡単ではありませんでしたが、隣の部屋の日本人の方が力になってくれ、いつも「新聞にこんな求人が出ていますよ」と教えてくれていました。何回電話しても「外国人の方はお断りします」と言われていたのですが、ある時、お弁当製造会社に電話をした時は、長く話ができました。それでも「やはりうちでは雇えない」と言われたのですが「いえいえ、今電話で30分も話せているんだから、明日面接に行きますよ」と言って、何とか面接に行くことができました。
面接で工場長さんと話した時も「うちでは外国人の方がいないので難しい」と言われましたが、「頑張って働きます」と伝えたところ、家に帰ったら留守電にメッセージが入っていて「明日から従業員としてよろしくお願いします」とのこと。そんなエピソードもありました。

――お子さんは何歳で日本に来られたのですか?

息子が8歳、小学2年生の時でした。ブラジル人は総社にもたくさんいましたが、みんな日本語が分からない。授業参観に行っても、先生が何を話しているのか分かりません。

でも息子が通った小学校は外国人の子が多く(当時全校で20人以上いました)、外国人学級がありました。日本語授業が分からない時に、その教室へ行って先生に教えてもらう。それはとても助かりました。

夫が入院中で、私は夜勤の仕事をしていました。夜8時から朝の10時まで、お弁当をつくる仕事でした。息子の面倒をみるために、夜は友達に家に来てもらい、朝登校する時は、隣に住んでいる日本人家族の子どもたちと一緒に行ってもらっていました。

学校からの手紙は、隣の方にお願いして、「こういうことですよ」と説明してもらい、それを他のブラジル人のお母さん方にシェアしていました。今は、ポルトガル語のお知らせが配られるので安心ですね。前は大変でした。

夫は退院後も後遺障害が残りましたが、幸いなことに、今度はその会社に直接雇ってもらって、工場勤務ではない、バックヤードの仕事をさせてもらうようになりました。

――ヤソヤマさんは永住ビザをとったと聞きました。

就労ビザの更新には、1人につき2万5000円と手数料を派遣会社に支払っていました。それである時、日本人の友達から「永住ビザをとったらどうですか?」と聞かれたんです。そうすれば派遣会社に頼らなくても、自由に仕事ができる。派遣会社に永住ビザをとるための費用を聞いたら、1人25万円とのことでした。家族3人で75万円。「それは高すぎるね」と日本人の友だちが言ってくれて、書類を書くのを手伝ってくれました。昔、水島に入管の事務所があったのですが、そこに持って行って永住ビザが手に入りました。
当時、外国人が日本で永住ビザをとったという話はあまり聞きませんでした。私はたぶん、先駆けだったと思います。

日本人の友達にはいろいろ助けてもらい、日本語も勉強できたし、カラオケも一緒に楽しんでいます。私の十八番は高山巌さんの「心凍らせて」と、香西かおりさんの「流恋草」。カラオケ大会で優勝もしましたよ。

◆取材後記

「総社は田舎だけど、市長がいい人」とヤソヤマさんは言う。現職の片岡総一市長だけでなく、ヤソヤマさんが日本に来たばかりの時からやさしい市長さんだったそうだ。「市長の存在ってそんなに大きいもの?」と、少し意外に感じた。
現在、総社市では、重要なお知らせや入学のための書類などは、ポルトガル語だけでなく、中国語、ベトナム語、英語、スペイン語などに翻訳したものが市役所から学校に送られ、在住外国人の保護者たちに配布されているとのこと。近隣の岡山市や倉敷市では、そうした支援はまだない。
また、他の自治体では、学校のことは教育委員会といったふうに、在留外国人の対応窓口があちこちに分かれている。そのため、何か困りごとがあっても「あっちの窓口へ行ってください」「うちではありません」と、たらい回しになってしまうこともある中、総社市では「市民生活部人権・まちづくり課国際交流推進係」に対応が一元化されている。今回の取材をコーディネートしてくださった橋本財団の方から、総社市は外国人の相談窓口を「人権」の部署に置いているという点でも先進的だとお聞きした。
そして同課には、ブラジル出身の職員、譚俊偉(たんしゅんわい)さんがいる。譚さんは、日本語、ポルトガル語、中国語、英語、イタリア語など複数の言語に精通する、頼れる通訳だ。外国人をサポートするため、日夜奔走している。今回のインタビューでも「困ったらとりあえず譚さんのところへ行く」といった言葉を何度も聞いた。
市長が多文化共生を掲げ、力のある市職員がいることで、こんなに大きく変わるのかと驚いた。こうした取り組みが、他の自治体でも広まってほしい。

(*)出稼ぎ運動:
1990年に出入国管理法が改正され、日系のルーツのある外国人が日本に住み、働くことができる在留資格が与えられることになり、ブラジルからの「デカセギ」が増え、製造業などを支えた。
https://www.nhk.or.jp/minplus/0018/topic012.html
https://digital.asahi.com/articles/ASN2M3RZBN27UZVL005.html

 

ライター/編集者黒部 麻子
1981年東京都生まれ。早稲田大学法学部卒業後、出版社に勤務。2011年の東日本大震災をきっかけに、翌2012年に岡山県に移住してフリーランスに。取材、執筆、編集のほか、2022年公開のドキュメンタリー映画「日本原 牛と人の大地」をプロデュース。
1981年東京都生まれ。早稲田大学法学部卒業後、出版社に勤務。2011年の東日本大震災をきっかけに、翌2012年に岡山県に移住してフリーランスに。取材、執筆、編集のほか、2022年公開のドキュメンタリー映画「日本原 牛と人の大地」をプロデュース。
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