能力主義社会の落とし穴

中世は暗い時代と思われているが、一方では社会が安定していた時期とも言える。貴族階層は世襲であり、誰も階層が上がることを期待せず、自分の置かれた階層が運命であると考えていた。不幸や幸運は神の御業によるものであるとも信じられていた。18世紀に入ると、産業革命が起こり、経済成長が始まって、国同士あるいは企業同士の競争が激しくなっていく。それにつれて、国も企業も有能な人材を求めるようになり、世襲や、縁故で採用していた今までの社会通念ではうまくいかなくなる。

しかし、社会は急には変わらない。はたして能力のある人を見極めるにはどのようにすればよいのか? 若者の採用は、世襲、縁故採用から、能力主義採用に変化する。そこで、学生の能力を見極めるには、どのような方法があるのだろうか? 世襲階層社会では、小学校からすでに上流階級とそうでない大衆とでは入る学校が違っていたが、その格差を埋める努力がまず成された。階層別ではなく、すべての子供を対象にした教育は、初等中等教育から、ついには、高等教育にまで及んだ。地位や階層でなく学力を基準としたランク付けは、今までの社会階層(貴族、平民の違い)を乗り越えるために、大きな武器となった。

ただし、能力主義社会を実現するためにはもう一つの階層を乗り越える必要があった。年齢階層である。昔から老人の経験は、組織だけでなく、社会的にも大きな重みを持っていた。老人の抵抗は強かったのだ。生産性を重視する立場からみると、世襲階層社会から、年功社会+一部能力主義社会に移り、それから初めて完全な能力主義社会に移っていく。能力主義社会では、責任ある地位につくために、家柄や地位、あるいは年齢を気にする必要はなくなった。あるいは、誰かの推薦に頼る必要もない。自らの能力を示して挑戦すれば、富や地位を獲得できるのだ。素晴らしい社会が到来した! しかし・・・。

マイケル・ヤングは、1958年の著書「Rise of the Meritocracy」でメリット(業績)とクラシー(支配)とをかけあわせ、メリトクラシー(能力主義)の社会を描いた。この著書で彼は、社会的地位が生まれによってではなく、才能によって決まる社会を、ユートピアの世界でなく、ディストピア(反理想郷・暗黒世界)として描いたものである。しかし、ちょっと待ってくれ! なぜ能力主義社会がディストピアなのか? それまでの世襲階層社会で生まれや血縁によって社会的地位が決まる状態から、能力によって社会的地位が決まるのはそれほど悪いものなのか? マイケル・ヤングの意図とは異なり、生まれや血縁によって決まる社会よりも、能力によって、地位や収入が決まる社会のほうがマシであると、多くの人が思っている。このような、能力主義社会を正義と見る、社会に広まった考えこそ「メリトクラシー(能力主義社会)」という。問題はここにあるのだ。

このようなメリトクラシー(能力主義社会)の考え方は、経営者にとって便利だし、社会的ダーウィンニズム(適者生存)にも合っている。しかし、能力がものを言う社会で、何の能力も持たないと判断される場合もあること(こちらのケースのほうが多い)を忘れてはいけない。能力を持たない人間と烙印を押されることは非常につらいことだ。教育者は、「個々の子供の能力を伸ばすような教育」を唱える。しかし、すべての子が一芸に優れているわけにはいかない。勉強ができる子、運動ができる子、絵を描く才能のある子、音楽の能力が高い子がいるかも知れない。能力での階層を作れば(高い階層を作れば)、低い階層も必然的に生まれる。能力的に劣っていると判断された人たちが、これほど道徳的に丸裸にされる事ない。育ちや身分で区別されるのは仕方がないと諦めても、能力によって区別されることには、屈辱と怒りを感じる。

メリトクラシー(能力主義社会)を認める現代人たちは、人は住んでいる社会から「評価されている」と感じる必要があることを見逃している。メリトクラシー(能力主義社会)では能力が低いために社会から評価されない人のことを忘れていたのだ。グローバリゼーションが進んで、熟練肉体労働者の雇用機会が減少した時、下層階級に属する人たちが望んだのは、より高い給付金等ではなく、新しい雇用機会だった。政府からの給付金による消費は、働くことによって得られるまともな生活に、とって変わることはできない。労働者階級が生きる目的として大切にしてきた現実の生き方と、能力主義との間のギャップが大きくなっているのである。

アリストテレスは次のように言っている。人間は本質的に社会的な生き物である。もし偶然でなく、自然に、非社会的な人間がいるとするなら、それは私たちにとって注目する価値のない人間であるか、あるいは人間以上の存在である。社会は、個人に先行する。普通の生活を送ることができないか、あるいは必要以上に自己充足できて、社会参加しない人は獣か神のどちらかであると。

多くの国で、能力がないとされた人たちの怒りが増している。しかし、既存の左派政党(かつてはこれらの人が支持していた政党)は、能力主義を信仰しているように思える。既存の右派政党からも、今まで支持していた左派政党からも見放され、能力主義社会から弾かれた人たちは、必然的に反理性主義政党、いわゆるポピュリズム政党へと流れていったのである。アメリカのトランプ政権、イギリスのブレグジット、フランスのルペン支持者の台頭など、欧州の左派政党の凋落はいずれも、この流れに沿っている。

翻って、日本では、能力主義社会は好ましいと考える人が多い。あるいは「当然である」と思われている。ただ、日本では現実問題として、年功社会が色濃く残っている。その結果、年功社会が、メリトクラシー(能力主義社会)の悲惨さを緩和しているかも知れない。現在の、失業対策としてリスキリングなどの新しい能力の獲得を広めようとする考えは、果たして、このようなメリトクラシー(能力主義社会)から取り残される人たちに恩恵となるだろうか?

公益財団法人橋本財団 理事長、医学博士橋本 俊明
1973年岡山大学医学部卒業。公益財団法人橋本財団 理事長。社会福祉法人敬友会 理事長。特定医療法人自由会 理事長。専門は、高齢者の住まい、高齢者ケア、老年医療問題など。その他、独自の視点で幅広く社会問題を探る。
1973年岡山大学医学部卒業。公益財団法人橋本財団 理事長。社会福祉法人敬友会 理事長。特定医療法人自由会 理事長。専門は、高齢者の住まい、高齢者ケア、老年医療問題など。その他、独自の視点で幅広く社会問題を探る。
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