【多文化共生・岡山#1】お店を居場所に―日本で苦労している外国人の力になりたい フィリピン出身 池田シェルリさん

岡山県内の在留外国人は、現在2万9435人。県人口の1.57%にあたる(2021年、岡山県調べ)。

その数は年々増加傾向にあり、近年では職場や地域で、外国の人たちと触れあう機会も増えているが、じっくり話を聞ける機会はあまりない。
岡山にはどのような外国人が、どのように暮らしているのか。さまざまな外国人の背景や生活、思いを知って相互理解を深めたいと、今回、総社市に住む5人の外国人に話を聞いた。

――池田さんは来日してどれくらいになりますか?

日本に来たのは18歳の時でした。最初は東京に来ましたが、その後総社市に来て、日本人男性と結婚をして家庭をもちました。今年で来日して33年になります。
6年前に総社市内で、念願だったフィリピン輸入品店を開きました。調味料やお菓子、飲み物など、いろいろなものを扱っています。英会話教室もやっています。

――お店を開くのは大変でしたか?

そうですね。日本語の会話はだいぶ分かるようになったのですが、漢字は今でも難しいです。書類の準備は大変でした。

銀行口座をつくるのにも、丸一日かかりました。お金を借りるわけではなかったんです。ただ通帳をつくるだけ。それでも「名前が漢字じゃないから」と言われて断られてしまったんです。行政から営業許可の書類も全部もらっていましたが、それはすべてローマ字表記でした。「私は外国人だから漢字じゃないですよ」と言って粘ったけど、シャッターも閉め始めて……。あの時はつらかったです。


その銀行は、日本人の友達から「岡山県で一番信用のある銀行」だと聞いていたので、そこで通帳をつくりたかった。お金を借りるわけじゃない。お金を入れるだけなのに、今から信用されないなんて嫌だと思って。まじめに一生懸命働いていることを認めてほしいです。結局、以前印鑑証明をもらった時に漢字で書かれていたなと思い出して、市役所に行ってそれをもらってきてOKになりました。
おもしろいのが、お店が軌道に乗ってきたら、今度はその銀行から「お店を大きくするためにお金借りませんか?」と言ってきたんですよ(笑)。私は借金をしたくないので、「あるもので頑張ります」と言って断りました。別にお金儲けをしたいわけじゃない。私たち外国人が一息つける居場所をつくることが目的です。

――やはり言葉の壁があるんですね。

私はボランティアで、困っている外国人のお手伝いをよくしているのですが、DV(ドメスティックバイオレンス)やうつで悩んでいる人もたくさんいます。
外国人にとっては、とにかく言葉が戦いです。私は日常会話なら話せるけど、分からないこともたくさんあります。病院で体の不調をどう説明するか、お医者さんの話をどこまで理解できるかは、分からない。だから本当にしゃべれない人だったらどれだけ不安か。だからフィリピン人だけでなく、どこの国の人でも、できるだけ駆けつけたい。

ある日、夜寝ていたら電話が鳴って「お腹が痛い、どこか病院ありますか?」と聞かれたことがありました。「もう病院は閉まっているので、薬局で聞いてみて」と言ったのですが「日本語が分からない。どう言えばいいか分からない」と言うので、「明日病院に連れて行ってあげるから」と言って一度電話を切りました。でもまたかかってきて、「自転車で行ける病院はないですか?」と。それであちこちの病院に電話をかけたのですが、コロナ禍でなかなか受け入れてもらえる病院がない時期でした。そうこうしているうちにまた電話が来て「血が出ている」と。それで私ももうパニックになって、救急車を呼びました。救急車が来たら帰ろうと思っていましたが、「池田さんも一緒にいて」と言われて、病院に付き添いました。「ありがとう、ありがとう」って手を離さないんです。マスクしかなかったので、その時はコロナを覚悟しました。翌日検査結果が出て、コロナではなかったので良かったのですが。その日は12時頃家に帰りました。翌日はお店も閉めて。後日、病院に勤めてる友達には「バカじゃないの?」と言われましたが(笑)、私は放っておけない。
でもその人も、その後手術をして、フィリピンに帰りました。働きに来ている人たちは保険に入っているから、私は「帰らないで、日本のほうが安心だから。あなた保険料払ってるんだからここで治して」と言ったのですが、なかなか分からなくて、不安だから家族に会いたくなって帰ってしまうんです。

――結婚や子育てで苦労したことはないですか?

うちの夫は一人息子ですが、結婚は反対されませんでした。夫のお母さんからは「反対じゃないけど、彼女(私)が心配」と言われましたが、お父さんは「あなた(夫)が選んだ人だから絶対大丈夫でしょう」って。結婚後は2世帯で一緒に暮らしました。もう2人とも亡くなり、子どもたちも成長して家を出たので、今は夫と2人になりましたが。

 

――お姑さんたちと感覚が合わなくて困ったことはないですか?

言葉の受け取り方が違うだけのこともあると思います。フィリピンの家族は大家族でした。16人きょうだいでしたから。日本の家族は人数が少ないのに、その中でバラバラになってどうするの?っていうのが私の感覚です。炊事場は上と下にありましたが、私は家族みんなで同じものを食べるほうがいい。夫は「2階で食べよう」と言っていましたが(笑)。
フィリピンにも3回連れて行きました。亡くなる前に「もう一回行きたい」と言うので、「向こうでもしものことがあったら怖いからお母さんやめて」と言いました。子どもたちの面倒も、よく見てもらいましたよ。

――お子さんたちはどうでしたか?

一番心配していたのは学校でのいじめでしたが、子どもたち2人とも小中高と、ありがたいことにそれはありませんでした。学校の友達とも仲良くできたし、先生やお母さん方とも。友達がたくさんいます。そこは何も心配がなかったです。

ただ学校からの手紙などは苦労しました。今はスクリーンショットを撮ればなんでも翻訳できますが、昔はGoogleトランスレーターみたいなものもなかったですから、大変でした。電話もそうですね。結婚したての頃に国際電話の請求が5万円も来てしまって。来たばかりで仕事もなかった時なので、「うわー、夫にどう言おう?」と頭を抱えました。大丈夫と言ってもらえたので良かったですが。今はインターネットがあればいくらでも話せるから、本当にそういう面は変わりました。

――岡山に来ている外国人から相談を受けることも多いですか?

そうですね。一生懸命働いて稼いだお金を夫にとられて困ってるという話も結構ありますし、職場でのいじめの相談も多いです。
私の経験からのアドバイスですが、日本とフィリピンは全然違う。私たちのことを「外人」とか、「言葉も通じない」とか、そういうふうに言われることもあるけど、私たちも逆の立場だったら同じだと思います。日本人は時間も守るし、きちんとした人が多い。だから諦めずに「私はこんなに頑張れるんだよ」というところを見せて、一度日本人に認めてもらえたら大丈夫、逆に応援してくれるからっていうふうにアドバイスしています。
それに日本語がしゃべれないのにケンカしても勝てません。自分のことを説明できなかったら戦えないじゃないですか。だから最初のうちはできるだけ気持ちを抑えてって言ってます。ただ、手を出したり暴力を振るうのは別です。それは絶対許さない。

――今後の希望は?

やっぱり、日本に来ている外国の人たちの居場所をつくりたいですね。言葉が分からなくて一人で抱えて苦しんでる人もたくさんいて、自殺してしまう人もいます。でも、誰かと話せば同じ思いの人もいるかもしれない。日本語を話せなくても、息抜きできる場所があったらいいなと思って、私のお店でこれから月に1回交流会を始めようと思っています。

それから、フィリピンの人に何か仕事をあげたいです。向こうにはなかなか仕事がなくて、どれだけ助けてもきりがないんです。お金をあげるより、仕事をあげれば、その人の誇りにもなるし、助けになる。そういう「つなぐ」ことをできたらいいなと思っています。
日本で集めた鉛筆や学用品などの寄付を、フィリピンの山間部に暮らしている子どもたちのところへ送ることもあるのですが、向こうに帰って子どもたちの喜ぶ顔を見るのが、何よりの幸せです。私は結婚して子どもたちも大きくなって、もうほしいものは何もない。お店の家賃が払えて、生活できれば十分です。だから、お金にかえられない幸せのために、できることをやっていきたいですね。

【取材後記】

来日して33年になる池田シェルリさんは、とても明るくてチャーミングな方だった。話し上手で、日本人の夫から「なんで朝からそんなに元気なん?」と言われることもあると言って、私たちを笑わせてくれた。
それでも、「外国人にとってはとにかく言葉が戦いです」と言う。池田さんほどに日本語が堪能でも、病院の受診となると困難だという話も、だからこそ話せない外国人だったらどれだけ不安かという話も、とても身につまされた。
職場でのいじめについての相談には、「言葉の受け取り方が違うだけかもしれない。自分で説明できなかったら戦えない。だから気持ちを抑えて」とアドバイスすることもあると言う。池田さん自身が、悔しい思いをしてもグッと堪えて、「頑張る姿を認めてもらえたら変わるから」との思いで乗り越えてきたのだろう。けれど、やはり理不尽な我慢を強いることのないよう、日本社会の側も、そういう人たちの思いを知って変わっていかなければならないと思った。

ライター/編集者黒部 麻子
1981年東京都生まれ。早稲田大学法学部卒業後、出版社に勤務。2011年の東日本大震災をきっかけに、翌2012年に岡山県に移住してフリーランスに。取材、執筆、編集のほか、2022年公開のドキュメンタリー映画「日本原 牛と人の大地」をプロデュース。
1981年東京都生まれ。早稲田大学法学部卒業後、出版社に勤務。2011年の東日本大震災をきっかけに、翌2012年に岡山県に移住してフリーランスに。取材、執筆、編集のほか、2022年公開のドキュメンタリー映画「日本原 牛と人の大地」をプロデュース。
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