生死についての最も大きな問題は、自分の死後も世界が続いているのに、自分はそれを見ることが出来ない。しかも、時間は粛々と進んでいるが、自分の時間は静止してしまうことにある。
果たして死後の時間はどの様になっているのだろうか?
これは、宇宙がビッグバンによって生まれて130億年と言われるが、その前は、どうなっていたのか? その前には何があったのか? と問いたくなることと同じである(科学者はそれに対して、「時間は無いのだ」とひたすら答える)。
天国や浄土が確実に存在すると信じている人は、この様な疑問は生じない。死後の世界は、確実に存在するからだ。大衆を吸引する宗教は、現生の利益と、死後の救済をよりどころとしてきたのである。
しかし、日本人の多くは唯物的考えを持っているはずで、脳が機能を停止すれば思考が生まれるはずもなく、何もない状態に陥ることに恐怖を抱いているのだろう。
この様な恐怖は、死を考える場合にのみ生まれてくる。日常的には生じない。
「長生きはしたくない」と言う人が多いが、では、実際に今すぐ死んでも良いか?と問えば、「ちょっと待ってくれ」との答えが返って来るはずで、本当は、長生きをしたいのである(健康な状態を保った上で)。
つまり多くの人は死を考えないようにして、刹那的に生きているとも言える。
多くの人間は、この様に生きて(ハイデッガーによると「頽落的」に生きて)、結局は死んでいく。生死を考えることは、この様な難問を積極的に考えることなのである。
しかし、多くの場合この様な「死の哲学」を、自分のものとして考えることは困難だ。日常的に考えるには、対象があまりにも大きく深刻で、日常離れをしているからである。
人間は大きな問題に直面した場合には、その問題から目をそむけ、日常的思考に戻っていく傾向が一般的なのだ。その結果「死の哲学」は、自分自身の「実存的」問題から遊離し、社会的な意味に転換して、終末期医療や介護の問題として提起されるのである。
終末期医療や介護の問題に転換された「死の哲学」は、財政的問題、社会的制度問題、あるいは家族や周辺との人間問題として意味を与えられる。
終末期医療の方法は? 自宅で死ぬことの意味は? などの問いかけは、葬儀をどの様にしようかとか、墓をどうしようかと考えることと同じように、自分の死生観を考えることに比べると、社会問題としての位置づけはともかく、自分自身の問題としては、所詮は意味が無いことに気づくだろう。
しかし、再度言うなら、自分自身の「死の哲学」は、それを考えること自体が、「想像を絶している」ものなのである。
普段は先送りされている「死の哲学」が、死が間近に迫った時にこそ、生きることの意味を感じることが出来るのは、結局、その時期にならないと、考えてもしょうがないのかもしれない。所詮は、この様な事を考えること自体が「趣味的な」ことかもしれないのだ。
一方、死を受け入れることに多くの人が同意できるのは、生があまりに苦しい時(身体的、精神的苦痛が限界を超えるとき)か、あるいは、生きる欲求が消えた場合のみであろう。
その反対に、幸せに、健康に生きている時に、「あなたは1ヶ月後に死にます」と言われるのは、どの様な気分に陥るだろうか。「死の哲学」が必要になるのは、本来は、この様な場合だろうし、逆に、高齢まで生きることはその意味で意義があることなのだ。
高齢になることは、死生観を何度も考える機会を得ること、そして、生のエネルギーが減少する事(減少しない人もいるが)にある。従って、20歳の死亡と90歳の死亡とでは、エイジズム的な観点を除いても、差があることは確かだろう。
仏教で唱えられる「無常」の考え方は、「死の哲学」に対して、ある一定の論理を提供する可能性がある。「無常」の考え方によると、世界の中で一定の状態に留まるものはない。物質も、精神も、社会制度も同様である。人間の細胞も常に入れ替わっていて、入れ替わりにくい脳細胞、心筋細胞もその成分は常に変化している。
この様に、すべてのものが「無常」であるならば、その集合体である「私」も仮想の存在である。「私」を形成するのは、脳細胞の緻密な相互関係によるのであり、あくまでも作られた存在なのである。つまり、「無我」なのである。「私」がないのだから、「私」の死も問題として存在しない。この様な考え方は「私」という概念自体を破壊するのである。その意味で、現代人にとって、2元論的世界(魂は存在する)を否定する以上は、「無常」の考えをよりどころにする意味があるのかもしれない。
Opinionsエッセイの記事を見る
東沖 和季の記事を見る
下田 伸一の記事を見る
宇梶 正の記事を見る
大谷 航介の記事を見る
東 大史の記事を見る
池松 俊哉の記事を見る
研究助成 成果報告の記事を見る
小林 天音の記事を見る
秋谷 進の記事を見る
坂本 誠の記事を見る
Auroraの記事を見る
竹村 仁量の記事を見る
長谷井 嬢の記事を見る
Karki Shyam Kumar (カルキ シャム クマル)の記事を見る
小林 智子の記事を見る
Opinions編集部の記事を見る
渡口 将生の記事を見る
ゆきの記事を見る
馬場 拓郎の記事を見る
ジョワキンの記事を見る
Andi Holik Ramdani(アンディ ホリック ラムダニ)の記事を見る
Waode Hanifah Istiqomah(ワオデ ハニファー イスティコマー)の記事を見る
芦田 航大の記事を見る
岡﨑 広樹の記事を見る
カーン エムディ マムンの記事を見る
板垣 岳人の記事を見る
蘇 暁辰(Xiaochen Su)の記事を見る
斉藤 善久の記事を見る
阿部プッシェル 薫の記事を見る
黒部 麻子の記事を見る
田尻 潤子の記事を見る
シャイカ・サレム・アル・ダヘリの記事を見る
散木洞人の記事を見る
パク ミンジョンの記事を見る
澤田まりあ、山形萌花、山領珊南の記事を見る
藤田 定司の記事を見る
橘 里香サニヤの記事を見る
坂入 悦子の記事を見る
山下裕司の記事を見る
Niklas Holzapfel ホルツ アッペル ニクラスの記事を見る
Emre・Ekici エムレ・エキジの記事を見る
岡山県国際団体協議会の記事を見る
東條 光彦の記事を見る
田村 和夫の記事を見る
相川 真穂の記事を見る
松村 道郎の記事を見る
加藤 侑子の記事を見る
竹島 潤の記事を見る
五十嵐 直敬の記事を見る
橋本俊明・秋吉湖音の記事を見る
菊池 洋勝の記事を見る
江崎 康弘の記事を見る
秋吉 湖音の記事を見る
足立 伸也の記事を見る
安留 義孝の記事を見る
田村 拓の記事を見る
湯浅 典子の記事を見る
山下 誠矢の記事を見る
池尻 達紀の記事を見る
堂野 博之の記事を見る
金 明中の記事を見る
畑山 博の記事を見る
妹尾 昌俊の記事を見る
中元 啓太郎の記事を見る
井上 登紀子の記事を見る
松田 郁乃の記事を見る
アイシェ・ウルグン・ソゼン Ayse Ilgin Sozenの記事を見る
久川 春菜の記事を見る
森分 志学の記事を見る
三村 喜久雄の記事を見る
黒木 洋一郎の記事を見る
河津 泉の記事を見る
林 直樹の記事を見る
安藤希代子の記事を見る
佐野俊二の記事を見る
江田 加代子の記事を見る
阪井 ひとみ・永松千恵 の記事を見る
上野 千鶴子 の記事を見る
鷲見 学の記事を見る
藤原(旧姓:川上)智貴の記事を見る
正高信男の記事を見る
大坂巌の記事を見る
上田 諭の記事を見る
宮村孝博の記事を見る
松本芳也・淳子夫妻の記事を見る
中山 遼の記事を見る
多田羅竜平の記事を見る
多田伸志の記事を見る
中川和子の記事を見る
小田 陽彦の記事を見る
岩垣博己・堀井城一朗・矢野 平の記事を見る
田中 共子の記事を見る
石田篤史の記事を見る
松山幸弘の記事を見る
舟橋 弘晃の記事を見る
浅野 直の記事を見る
鍵本忠尚の記事を見る
北中淳子の記事を見る
片山英樹の記事を見る
松岡克朗の記事を見る
青木康嘉の記事を見る
岩垣博己・長谷川利路・中島正勝の記事を見る
水野文一郎の記事を見る
石原 達也の記事を見る
野村泰介の記事を見る
神林 龍の記事を見る
橋本 健二の記事を見る
林 伸旨の記事を見る
渡辺嗣郎(わたなべ しろう)の記事を見る
横井 篤文の記事を見る
ドクターXの記事を見る
藤井裕也の記事を見る
桜井 なおみの記事を見る
菅波 茂の記事を見る
五島 朋幸の記事を見る
髙田 浩一の記事を見る
かえる ちからの記事を見る
慎 泰俊の記事を見る
三好 祐也の記事を見る
板野 聡の記事を見る
目黒 道生の記事を見る
足立 誠司の記事を見る
池井戸 高志の記事を見る
池田 出水の記事を見る
松岡 順治の記事を見る
田中 紀章の記事を見る
齋藤 信也の記事を見る
橋本 俊明の記事を見る