ハンセン病は神経の麻痺、顔や手足の変形、失明などの症状を伴う感染症で、過去には「らい(癩)」と呼ばれていた病気です。今日では薬で治すことができるようになりましたが、医学が発達していなかった頃には、業病や遺伝病などと考えられ、不治の病と恐れられていました。感染症であることが明らかになったのは1873年、ノルウェーの医師ハンセン(G. H. Armauer Hansen, 1841-1912)によって病原菌が発見されてからです。
病原菌は発見されたものの治療法は見つからず、感染の拡大を防ぐことが唯一の対策と考えられていました。それまでは修道院や救貧施設などが患者を保護していましたが、感染症であることが判明するとハンセン病専門の療養施設が建設されるようになります。施設の建設は欧米を中心に広がり、やがて日本でも隔離施設の必要性が主張されるようになりました。既にコレラなど伝染病のための医療施設として避病院が存在していましたが、国は新たにハンセン病専門の療養施設を設ける決断をします。その根拠となるのが「癩予防ニ関スル件(1907) ※1 」です。この法律は、「癩予防法(1931)」、「らい予防法(1953)」を経て1996年に廃止されるまでハンセン病患者が療養所へ入所することを定めていました。治療薬の発見は1941年、国内でも1950年代には普及されていたことをふまえると、法律の見直しが必要以上に遅れたことは否めません。医学的にハンセン病患者がいなくなってもなおハンセン病療養所が存在する背景には、このような制度上の問題があげられます。
ハンセン病療養所は、法律によってハンセン病患者を社会から隔離するために建てられた施設で、国内には13か所の国立療養所と1か所の私立療養所が残されています。
療養所が設立された当初は、身寄りがいない、生計が成り立たないなど自宅療養ができない患者のみを受け入れていましたが、次第にハンセン病の早期終息へ向け全患者へと隔離対象が拡大されていきました。医師の診断により自主的に入所する患者がいる一方で、ひっそりと暮らす患者を探し出し強制的に入所させることも往々にして行われるようになります。無癩県運動と呼ばれ、全ての患者を療養所に収容し地域からハンセン病をなくそうと官民一体となって患者を探し出しました。多くのハンセン病患者は、病気の症状に加え、本来一番身近であるはずの親族との絶縁、患者に排他的な社会情勢などにより居場所を失うこととなります。当時は治療法がなかったため、療養所に入所することは法律で認められた居場所が得られると同時に生涯出られないことを意味しました。
全ての患者が隔離対象となったため、療養所には子供からお年寄りまで様々な年代の患者が集められました。そこで、療養所内にはそれぞれの世代に必要な施設が作られるようになります。家やお店はもちろん、学校、劇場、集会所、神社、畑などのほかに火葬場や納骨堂まで建設されました。敷地の広い療養所では、敷地内を循環するバスも運行され、小さなまちのような光景でした。
積極的な患者収容により、療養所は常に定員超過の状態でした。定員超過は、スペースの問題だけでなく療養生活全般に大きな影響を及ぼしました。療養に必要な部屋や布団はもちろん、食料も決められた定員分しか確保されていない上に、医師や看護師はじめ療養所を運営する職員の数も不足し、療養環境は劣悪でした。そこで比較的症状の軽い患者らは療養所の働き手として様々な作業に従事することになります。入所前の職業を活かした大工、電気技師、理容師をはじめ、掃除洗濯や食料生産、土木工事、治療補助、重症者介助、服や布団の仕立て、子供たちの教育に至るまでその作業内容は多岐にわたりました。そして入所者はその対価としてわずかながら賃金を得ることができました。健康状態によってできる作業は限られ、また作業内容によって賃金に差があったため、次第に所得格差が目立つようになり、それらは衣食住に如実に表れることとなります。そこで考えられたのが、働くことのできない高齢者や障害者らに互助金を配分するシステムです。作業賃金の支給上限を設け、それを超えた分や売店の売り上げの一部などが互助金の財源に充てられました※2 。ハンセン病療養所はその形だけでなく、運営システムにおいてもひとつのまちを形成していました。
療養所には病棟もありましたが、多くの入所者は患者住宅と呼ばれる建物に住んでいました。患者住宅の間取りにはいくつかタイプがありますが、10~12畳の大部屋4室に共用の玄関とトイレ、台所の構成が代表的です。大部屋1室当たり8人が割り当てられており、個人に許された空間は1畳半弱しかありませんでした。雑居と呼ばれたこの状態は戦後もしばらく続き、療養所によって前後はあるものの、全ての入所者に完全な個室が与えられたのは1970年代後半になってからのことです。
初期の患者住宅は、男性患者、女性患者、夫婦患者の別に分けられていました。次第に入所者が増えると、さらに年齢別、症状別に細分化されていきます。就学期の子供たちが暮らす少年少女舎をはじめ、25歳前後までの若者のための青年舎が作られ、同世代間の交流が図られました。それ以上の世代では、日常生活の自立度や手足の障害、視力の障害など症状によって住むところが決められました。そして最も大きな変化をみせたのが夫婦舎です。当初、療養所では夫婦が共に患者として入所した場合を除き結婚を認めておらず、夫婦舎の占める割合はごくわずかでした。しかし、心の拠り所のない療養生活に安定をもたらすとして園内結婚が認められるようになると、新婚夫婦のための家が建設され始めます。入所者にとって結婚は、家族ができることに加え、雑居生活から逃れ夫婦で暮らせることを意味しました。夫婦舎の登場は、住環境の改善にもつながっていきました。マイホームという認識が生まれたことで、リフォームや増改築が進み、老朽化住宅に対しては建替えの要求も積極的に行われるようになります。
こうした変化の背景には、大きくは結婚、そして治療薬の開発、経済所得の増加など様々な要因が関係しています。建物は時代背景を映し出す鏡としても見ることができ、現在の姿だけでなくその変遷を調査することは歴史を理解することにつながっていきます。
今日の療養所は、ハンセン病による後遺症を抱えた高齢者が暮らす高齢者施設です。かつての活気はなくなりましたが、新たな場としての活用も始まっています。ハンセン病に対する正しい知識と理解を深める目的で各療養所に社会交流館が設置され、療養所の歴史や入所者の体験を伝えるとともに偏見や差別のない社会実現に向けた交流が進められています。また、地域住民の外来診療を通して地域医療を支えたり、誰でも利用できるカフェを作るなど各療養所独自の取り組みも行われています。海外まで視野を広げると、歴史地区や文化遺産に指定するような動きも見られ、今後の療養所の在り方についてさらなる関心が期待されます。
※1 正式名称は、明治四十年法律第十一号。
※2 長島愛生園入園者自治会(1982).『隔絶の里程:長島愛生園入園者五十年史』. p196.
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