日本では高齢者、障害者、精神病者に対して、ごく普通に「施設に入る」ことを勧める。例えば、高齢者で、介護度3程度(1日何回か援助が必要となる程度)になったとき、専門家に相談すると高齢者施設を勧められる場合が多い。では「施設」に入るということとは、どのようなものだろうか? アーヴィング・ゴッフマンの「アサイラム(施設)」は、彼が1950年代、精神病棟に入ってその実態を描写したものだ。環境は現在と異なるとは言え、本質は変わらないと考えられる。
アサイラム(施設)の特徴として、彼は次のように定義している。施設とは、「睡眠をとり、遊び、仕事をする」三領域を区劃(くかく)する隔壁がない場所で、明らかに示された規則体系を、施設の一団の職員によって上から強制されるものである。それらを「全制的施設(total institution)」と呼んでいる。これはいかに「良い施設」であろうと変わらない。施設が持つ宿命のようなものだ。障害者施設や高齢者施設はまさにこの様な特徴を持っているのである。その点で、「脱施設化」とは、施設の建物や構造をなくすことだけでなく、施設の持つ「全制的施設(total institution)」的な仕組み、つまり「睡眠をとり,遊び,仕事をする」三領域を区劃する隔壁がない場所で、明らかに示された規則体系を、施設の一団の職員によって上から強制されるという状態を「なくすこと」だ。
日本での施設の特徴は、障害者(高齢になっての障害を含む)に対する、安全・安心の確保と在宅で介護する人たちの負担軽減であると言われている。普通の生活が送れなくなった障害者に対して、特別の場所を用意し、施設の職員が手助けを行い、生活をおくるというものである。一見良さそうに思われるが、問題の本質は、障害者(高齢になっての障害を含む)に対して、「社会からの切り離し」を前提としている点である。多くの障害者(高齢になっての障害を含む)の援助は、伝統的習慣では家族が行っていたために、「家族の側からの要請」で施設が作られたのだ。障害者からの要請でつくられたのではない。家族が自宅で障害者(高齢になっての障害を含む)の世話を行うことは大変である。多くの場合、それは女性の仕事として考えられていた。このような女性の仕事からの解放を願う声が高まったことは、容易に理解できるだろう。ここで、やっかいものを社会から隔離を促す伝統が登場する。ミシェル・フーコーが「狂気の歴史」に書いているように、昔からどの地域にも、社会に適さないものを隔離する伝統があった。この伝統と、多くの障害者の隔離とがつながり、精神病院をはじめとする施設が発展したし、その関係はさらに、障害者全般(高齢になっての障害を含む)に広がったのだ。
女性が障害者(高齢になっての障害を含む)の介護に携わっていた日本で、介護に対する負担軽減を求めたことは納得できる。同時に、対象である障害者(高齢になっての障害を含む)の考えも合わせて考慮しなければならない。欧米ではこれらの論争から、自宅⇒施設⇒グループホームあるいは高齢者集合住宅と、施設は「脱施設化」的に変化してきた。一旦進行した「施設化」に待ったがかかったのだ。介護する側の負担軽減と介護される人との関係は相反する場合が多いのだ。これらの試みは、相反する関係を解消するための知恵である。
日本での高齢者施設の著しい増加、障害者施設の存続、精神病床の維持など、多くの問題で、介護を行う人達からの声は届き始めたが、介護を受ける人達の声は依然として無視されたままである。管理者には、安全・安心を重視するような規制が数多くかけられた結果、入居者はひたすら、生理的欲求(生理的欲求と安全欲求)のみ重視され管理されている。承認欲求は無視される。
1970年代、増加する高齢者のために、日本では高齢者施設を整備する計画が立てられた。ちょうどその頃、欧米で「ノーマライゼーション」の考えのもとに、「脱施設化」が起こった。「脱施設化」の流れからの在宅重視を唱えつつ、大量の施設整備という一見相反する政策が要請された。例えば、施設の典型である「特別養護老人ホーム」にデイサービスやショートステイの機能をつけたことに、二つの矛盾する考え方を見る。
介護保険での在宅重視の声も聞かれる。確かに、自宅に居住する障害者(高齢になっての障害を含む)に対してのサービスは増加している。しかし、そのサービスの大半は、家族やその他の非公的サポートが存在するとの前提で行われている。家族や非公的サポートがなくなった時点で、在宅サービスは成り立たなくなる場合が多い。結局、障害者(高齢になっての障害を含む)は、障害が強くなった時点で、老人ホーム等を勧められるのだ。
研究助成 成果報告の記事を見る
小林 天音の記事を見る
秋谷 進の記事を見る
坂本 誠の記事を見る
Auroraの記事を見る
竹村 仁量の記事を見る
長谷井 嬢の記事を見る
Karki Shyam Kumar (カルキ シャム クマル)の記事を見る
小林 智子の記事を見る
Opinions編集部の記事を見る
渡口 将生の記事を見る
ゆきの記事を見る
馬場 拓郎の記事を見る
ジョワキンの記事を見る
Andi Holik Ramdani(アンディ ホリック ラムダニ)の記事を見る
Waode Hanifah Istiqomah(ワオデ ハニファー イスティコマー)の記事を見る
芦田 航大の記事を見る
岡﨑 広樹の記事を見る
カーン エムディ マムンの記事を見る
板垣 岳人の記事を見る
蘇 暁辰(Xiaochen Su)の記事を見る
斉藤 善久の記事を見る
阿部プッシェル 薫の記事を見る
黒部 麻子の記事を見る
田尻 潤子の記事を見る
シャイカ・サレム・アル・ダヘリの記事を見る
散木洞人の記事を見る
パク ミンジョンの記事を見る
澤田まりあ、山形萌花、山領珊南の記事を見る
藤田 定司の記事を見る
橘 里香サニヤの記事を見る
坂入 悦子の記事を見る
山下裕司の記事を見る
Niklas Holzapfel ホルツ アッペル ニクラスの記事を見る
Emre・Ekici エムレ・エキジの記事を見る
岡山県国際団体協議会の記事を見る
東條 光彦の記事を見る
田村 和夫の記事を見る
相川 真穂の記事を見る
松村 道郎の記事を見る
加藤 侑子の記事を見る
竹島 潤の記事を見る
五十嵐 直敬の記事を見る
橋本俊明・秋吉湖音の記事を見る
菊池 洋勝の記事を見る
江崎 康弘の記事を見る
秋吉 湖音の記事を見る
足立 伸也の記事を見る
安留 義孝の記事を見る
田村 拓の記事を見る
湯浅 典子の記事を見る
山下 誠矢の記事を見る
池尻 達紀の記事を見る
堂野 博之の記事を見る
金 明中の記事を見る
畑山 博の記事を見る
妹尾 昌俊の記事を見る
中元 啓太郎の記事を見る
井上 登紀子の記事を見る
松田 郁乃の記事を見る
アイシェ・ウルグン・ソゼン Ayse Ilgin Sozenの記事を見る
久川 春菜の記事を見る
森分 志学の記事を見る
三村 喜久雄の記事を見る
黒木 洋一郎の記事を見る
河津 泉の記事を見る
林 直樹の記事を見る
安藤希代子の記事を見る
佐野俊二の記事を見る
江田 加代子の記事を見る
阪井 ひとみ・永松千恵 の記事を見る
上野 千鶴子 の記事を見る
鷲見 学の記事を見る
藤原(旧姓:川上)智貴の記事を見る
正高信男の記事を見る
大坂巌の記事を見る
上田 諭の記事を見る
宮村孝博の記事を見る
松本芳也・淳子夫妻の記事を見る
中山 遼の記事を見る
多田羅竜平の記事を見る
多田伸志の記事を見る
中川和子の記事を見る
小田 陽彦の記事を見る
岩垣博己・堀井城一朗・矢野 平の記事を見る
田中 共子の記事を見る
石田篤史の記事を見る
松山幸弘の記事を見る
舟橋 弘晃の記事を見る
浅野 直の記事を見る
鍵本忠尚の記事を見る
北中淳子の記事を見る
片山英樹の記事を見る
松岡克朗の記事を見る
青木康嘉の記事を見る
岩垣博己・長谷川利路・中島正勝の記事を見る
水野文一郎の記事を見る
石原 達也の記事を見る
野村泰介の記事を見る
神林 龍の記事を見る
橋本 健二の記事を見る
林 伸旨の記事を見る
渡辺嗣郎(わたなべ しろう)の記事を見る
横井 篤文の記事を見る
ドクターXの記事を見る
藤井裕也の記事を見る
桜井 なおみの記事を見る
菅波 茂の記事を見る
五島 朋幸の記事を見る
髙田 浩一の記事を見る
かえる ちからの記事を見る
慎 泰俊の記事を見る
三好 祐也の記事を見る
板野 聡の記事を見る
目黒 道生の記事を見る
足立 誠司の記事を見る
池井戸 高志の記事を見る
池田 出水の記事を見る
松岡 順治の記事を見る
田中 紀章の記事を見る
齋藤 信也の記事を見る
橋本 俊明の記事を見る