対話を促進しなければいけないわけ

多くの国で、社会の対立が激しくなっている。今まで、知識階層(エスタブリッシュメント)と言われる人たちの話し合いで、(あるいは、なれあいで)行われていた政治が、民主主義により、より多くの人たちが参画することによって身近になっている。言葉を変えれば社会の異なる部分を構成している人たち、あるいは違う民族、宗教を持つ人達が感じる、生活上の直接的利害に左右される政治が行われるようになったということだ。その結果、過去のように高邁な理想を語っていた政治家はいなくなっていく。これがポピュリズム政治である。ポピュリズム政治は、政治家のみの問題ではなく、民主主義そのもののもつ性質から必然的に生まれ、政治家が利用しているものである。では、このようなポピュリズム政治を防ぐにはどうすればよいのか?

19世紀までの帝国の時代―中華帝国、オーストリア帝国、オスマントルコ帝国、プロシア帝国、ロシア帝国―などでは、統治する絶対者が存在した。民衆は自分たちで物事を決定する事が出来なかったし、その必要はなかった。第一次世界大戦を経て、民族の自決に基づいた「国民国家」の時代に移ると、自分たちと他の人たちとの境界を意識することが多くなった。境界とは、狩猟採集時代から本能的に人間が持つ、「私たちと彼ら」を区別する気分が、自由な空気とともに再出現したのだ。

「帝国の時代」では、領主と領民間の固定した身分制度のために、領主領民それぞれは、既存の秩序を疑いもなく、自然なものとして受け入れる傾向が強かった。紛争は領主間の争いや、領主と領民の争いが大部分であり、領民同士の争いは少なかった。帝国の時代が去り、封建的な制度が崩壊すると、「国民国家」が生まれ、民族が意識されるようになり、「私たちは同じ民族であり、彼らは異なる民族である」との考えが生まれたのである。当然ながら、国境線をどの様に引いたとしても、完全に民族を分離する境界を定めることなど不可能であり、また、民族自体が定義できない状態でもあった。

「国民国家」成立以降は、国同士の対立も残るが、むしろ国の中での民族間の争いが強くなった。そして、人間を「区別」しようとすれば、その境界が無限に拡大する。肌の色、顔の形、生活習慣の違い、所得の違いなど、人間同士を「区別」する方法は無限に存在するからだ。生活自体が苦しかった時代は、それでも民衆同士の「連帯」を感じることが出来たが、第二次世界大戦後、福祉国家が実現し、生活が向上すると、それまでの「連帯」感も薄れ、ジグムント・バウマンの唱える、リキッド・モダニティの社会へと移行したのである。リキッド・モダニティの世界において、自由が与えられ、既存の社会規範が消失している状態では、個人が最小の社会的単位とならざるを得ない。そして、アトム化(個別化)した個人で成り立つ社会は常に流動的であり、個人はなんら手がかりを持たず、社会の中で浮遊して生きていくことになる。この様な社会では、人々は自由をそれほど大切なものとは、もはや感じなくなり、孤立を深め、「リバイアサン」つまり、万人の万人に対する戦いを鎮める独裁者を望むようになる。現代の独裁者はいずれもポピュリストだ。

将来の展望を持たないポピュリズム政治の行き着く先は、「私たちと彼ら」をより鮮明にして、自分たちの惨状を誰かのせいにすることだ。ポピュリズム政治は、その場限りの政策であり、いずれは破たんすることが明らかである以上、ポピュリズム政治は敵を作らなければならない。この様な状態で、私たちはなにを手掛かりとして考えていけばよいのか? それには、既存の社会制度に寄りかかることなく、個人が孤立する社会を是認し、教育により個人の力をつけるとともに、「対話」の重要性を小児の時代から認識させる必要がある。個人が独立せず、「支え合い」によって社会が成り立っている時、ポピュリズムの危険は増大する。世界には、いろいろの考え方があり、それらはお互いに自分こそが正しいと主張する。この様な世界において、なお、共通の考え方を確立することは非常に困難であると言える。しかし、慣習的なやり方、誰も責任を取らないやり方が横行するとき、「対話」がより重要となるのだ。

しかし、「対話」は、今まで対立していた者同士が、さて始めようかと言って、直ちに行うことが出来るようなものではない。幼児期からの絶え間ない訓練を経て初めて行うことが出来るものなのである。「対話」は、人間を同じもの同士として信じることが前提にあると同時に、お互いの考えが違うことも前提とする。お互いを敵として考えている人間が直ちに対話を行おうとしても、それは対話でなく、いかに自分の主張を通すか、その方法を主張することのみに陥るであろう。対話を行う場合、他者に対する畏敬の念が必要である。他者に対する畏敬の姿勢は、大人になって急に出来るものではない。幼児の時からの教育によって育まれるものである。それが家庭で出来なくても、その為に小学校、中学校教育はあるのだ。多くのものがAIによって代用できる時代に、もはや教育でノウハウものを教える必要性は少なくなっているのだ。

「対話」の教育は、民主主義教育の基本である。お互いの利害が相反するときに、「自由の相互承認」つまり、自分が考える自由がある以上、他人も同様に自由に考える権利を有することを前提としなければならない。他人の考えを否定することは自分の自由な考えを否定される事にもつながることを理解させる必要がある。その結果、自分の主張を「少し」ひっこめ、相手の主張を吟味する態度こそが、今後の世界を豊かにするための必須条件となるのである。これがポピュリズム政治を防ぐ基本となる。

公益財団法人橋本財団 理事長、医学博士橋本 俊明
1973年岡山大学医学部卒業。公益財団法人橋本財団 理事長。社会福祉法人敬友会 理事長。特定医療法人自由会 理事長。専門は、高齢者の住まい、高齢者ケア、老年医療問題など。その他、独自の視点で幅広く社会問題を探る。
1973年岡山大学医学部卒業。公益財団法人橋本財団 理事長。社会福祉法人敬友会 理事長。特定医療法人自由会 理事長。専門は、高齢者の住まい、高齢者ケア、老年医療問題など。その他、独自の視点で幅広く社会問題を探る。
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