単純ヘルペス脳炎とその後遺症を体験して(前編)

2020年10月当時、新型コロナの感染が一般的に広がりはじめたころ、私もこの対応におわれ、若干体の怠さを感じていたある日、急に強い体の怠さと頭痛を感じました。体温が38℃台にあがり、病院を受診したところ、コロナの可能性もありとの診断でした。会社に連絡し、会社の同僚が来てくれ、その数分後に救急隊員が来られました。なんで救急車が? と疑問に思いましたが、そのまま、救急隊員の方のご指示に従って救急車に運ばれました。救急車で運ばれていることは分かりましたが、意識はさらに低下したようです。着いたのは集中治療室と思いますが、入った時には意識はほとんどなく、どれぐらい時間が経過しているか全くわかりませんでした。それから、翌日か数日たったのか全く分かりませんが、目を覚ますと目の前に母親がいて、その側に父親、そして妻や息子が見えたのを覚えています。その時にどんな話をしたかなど記憶はありません。しかし、離れるときに息子が手を握り『頑張って』『心配しなくていいから』と言い、涙をうかべたことは記憶として残っています。意識がなくなったり戻ったりしているとき、気がつくと妻が手を握り、涙をうかべていました。そして、私も妻が離れるときに、とても悲しくて涙を流していました。

その後、幸いに意識は次第に回復し、立ち上がり移動は自立、階段も手すり無しでも上り下りができる状態となりました。しかし、脳疾患後遺症のためか、1.記憶障害 2.注意障害 3.遂行機能障害 4.社会的行動障害 5.失語症 の後遺症(高次脳機能障害)が残りました。これらは、次第に回復して行きましたが、1.記憶障害と5.失語症が残りました。

初期の時点では妻や子供の名前など、密な関わりのある人の名前ですら忘れていました。「ひらがな」は読み書きができるのですが、漢字は読めない書けない状態でした。日頃からあまり意識しないものは、特に記憶障害が強いようでした。この時点で幸いだったのが、家族の認識や会社や同僚などはしっかりと記憶が残っていたことです。
発症から2か月後、体の回復もあり病気の回復基準に達していることから、自宅近くの病院へ転院となりました。この時に、初めて私は、どんな病気にかかっているか、そして今後の再発や後遺症について説明を受けました。私の病気は「単純ヘルペス性脳炎による後遺症での高次脳機能障害」だったのです。転院先のリハビリテーション病院では、身体の回復も図られましたが、主に記憶の回復が行われ、順調な回復でした。発病から約3か月後の2021年1月末に退院となりました。帰宅後、人や物の名前や名称も次第に記憶が回復していきました。反面、使う頻度が少ない人名や場所などは、回復に時間を要しました。この時点で、車の運転もできるようになったので、ほぼ毎日外出し山や滝、神社やお寺などに行き、自身の回復を記録するために写真なども撮っていました。
そして、2021年8月(発症から10ヶ月後)より会社へ復職となりました。その時の業務はこれまでとは全く異なり、主な業務は事務的作業となりました。勤務時間も最初は短時間で徐々に延していき、約3か月後に一般職員と同じ勤務時間へと回復して行きました。仕事は、それまでの業務とは異なり、会議には参加しますが、部下は無く、正直何をしていくと良いのか、私がどのように関わるといいのか、将来性など具体的なことが分からず、これでいいのか、私は会社に不必要な人材かもしれないと不安でした。

ところが、ちょうど発病から1年経過した2021年10月末、てんかん発作がおこりました。予兆や痛みや苦しみなど無く、突然意識を失ってしまいました。翌日、意識が戻り窓をみると病室にいることが分かりました。再度、最初の発病時とほぼ同じ程度の失語症が起こりました。立ち上がりが自力では困難で歩行器が必須でした。しかし、今回は約2週間程度で、立ち上がり歩行も可能となり、会社へも復職となりました。しかし、失語がまだ十分に回復しなかったので、仕事は前回と同じように、まずは短時間から徐々にフルタイムへ戻してもらいました。しかし、再度の発作予防の薬の服用が必要となったため、車の運転は出来なくなり、長距離の移動では公共交通機関を使わなければなりません。その後、失語も徐々に回復し、服薬も少なくなり、主治医の病院への通院も毎月から2か月に1回へと変わり、車の運転も可能となるまで回復していました。
仕事は前回と同様に事務作業が主となりますが、少し異なる点は、ご入居者および退去後の入居者家族への返金に関わる業務となりました。身体は回復していたので、新型コロナの発症者数が減少するに併せて、リハビリのために休暇の際にはできるかぎり外出し、様々な自然や町などを見ながら写真を撮影して、場所の名称や利用できる交通機関の名称などを調べ、Instagramなどに投稿したりしながら記載することで、漢字の理解や発語の改善を行っていました。

しかし、2022年6月(最初の発作からは1年8ヶ月後)の夜、入浴後、急に頭痛と視界が極端に低下し、2階から階段を、助けを求め叫びながら下りた後、意識を無くしました。2回目のてんかん発作です。その時、駆けつけてくれた息子から「大丈夫だから」と言われたことは記憶として残っています。救急車に乗ったことや病院へ搬送されたことは、前回同様に全く記憶は無く、気がつくと深夜で、病院のICUに横たわっていました。この時もやはり失語症があり、歩行能力は低下していましたが、以前のてんかん発作時に比べると能力の低下は軽く、翌日退院し自宅に戻り、主治医の病院を受診しました。リハビリは必要なく日頃の生活を行うと良いとのことでした。会社へは2週間後に復職しました。業務は発症前と同じ内容です。少なくなっていた服薬は、1回目のてんかん発作後の服薬量へと増加し、通院も毎月1回となりました。

しかし、完全な回復となる前に、前回の発作から約2か月後の2022年8月(最初の発作から1年10ヶ月後)に3回目のてんかん発作が起こりました。今度は、髪を染めて洗い乾かすとき、急に右眼が見えにくくなり、右耳に急に声が聞こえてきたのです。そして聞こえてくる声は、人がしゃべっている声ではなく、電話などで機械的に記録されたトーンの音で、何を話しているのかわかりませんが、それは「音」ではなく「言葉」でした。これらの症状から、てんかん発作と自分で判断して、家族に携帯で電話しました。しばらくすると救急車が自宅に到着しました。玄関の扉を開き、救急隊員と少し話をしていたところ、(病気とは思えなかったのでしょう)救急隊員は地域でコロナの感染者が増加していることもあるためか、「様子を見ましょうか」と言っていましたが、私自身が身体の違和感を強く感じたので、搬送をお願いしました。搬送先の病院を決めるのに時間がかったため、救急車の中で数分後、てんかん発作が出てしまいました。その時はこれまでと異なり、ある程度意識はありました。しかし、右眼は見えにくい程度ではなく、全く見えなくなりました。左眼で見える景色は複雑に曲がり屈折して見えはじめ、見える範囲は約30cm程度と狭く、相手の表情などは全く分からない状態でした。右耳には異様な機械的な声が聞こえ続けていました。そして、右手は全く動かず、左手にはとても強くしびれを感じ下手な動きをしないように抑えようとしても、どのように動いているか全くわからなくなりました。口もしびれが強まり、歯茎がしびれ、口を開いたり閉めたりすることはできなくなり、異様に曲がっていく感覚が強まったところで意識を失くしてしまいました。その後、目の見え方もある程度回復し、物の認識もほとんど出来るようになりましたが、やはり今までの発作と同じように、失語症はあり、名前などは言えない場合がありました。その後次第に症状は軽減していきました。

最初の病気の発症から、後遺症となる失語症(高次脳機能障害)は、2年ほど経過していますが症状は明確に回復していっています。そして、薬は後遺症の再発を予防するために、副作用のリスクは高くなりますが、初期とは異なる薬へと変更になりました。幸い意識の回復や目の見え方そして耳の聞こえ方は日に日に回復しています。そして人や物の名前や名称の記憶も回復していっています。
以上が、私が経験した単純ヘルペス性脳炎及び後遺症の経過です。次回は、その間の感情の移り変わりについて述べたいと思います。

SOMPOケア株式会社藤田 定司
大学卒業後、某ホテル業界へ入社。1999年、翌年の2000年に介護保険制度設立を知り介護職員として転職。その後、福祉の先進となる海外で研修を受け、日本にほとんど無かった『個別ケア』の重要性を知り、改善に努め現状に至る。休日は観光地などに行き、撮影など行いながら体を動かす。
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