言葉の威力と危険性

人間などいわゆる高等動物は、情報を得て、それを解釈し、対処方法を決める段階を経て行動に移る。情報として提供されるのは視覚を通じて得た風景や物、聴覚を通じた音、あるいは自分が想像したイメージなどである。これらの情報は千差万別だ。例えば、リンゴを見た場合、それは丸く赤い10センチ程度の物体であるが、リンゴは一つとして同じものはない。工業製品と違い、色も少しずつ違うし、大きさも違う。あるいは、リンゴに似せて粘土で出来た物体もある。しかし、多くの人は少しの違いは無視して「それはリンゴである」と見なしている。この様な現象は、人間がすべてのものを「分類」する性質があるからだ。

規格に沿って作られた工業製品を別にすると、目に見える自然世界のものは、一つとして同じものがない。人間はこの様な種々雑多なものを「分類」する。「分類」するためには言葉が必要だ。言葉を使って「分類」するのにはそれなりの理由がある。「分類」をすれば、自分自身にとって自分の周囲の環境に対する理解を助ける効果がある。そして、生活に大いに役立つ。また、それ以上に大きな理由もある。「分類」するのは、人間相互に意思伝達を行う(コミュニケーションを行う)為に都合がよいからだ。例えば、「認知症」と言えば、多くの人たちに、何を言っても分からない、時には暴力をふるい周囲の介護者を悩ませ、一人で生活することは到底できない人とのイメージを想起するだろう。「認知症の人」と、「認知症でない人」との間には、実際にはわずかの差しかなくても、言葉によって大きな差が生まれる。この様に「分類」に伴う言葉は、それ自体が限定された意味を持ち、自分の周辺環境の理解を促し、コミュニケーションに便利ではあるが、同時に「認知症」で示されるように、世界を分断し、世の中で起きている現象を一定のカテゴリーに押し込める危険がある。

一方で、人間が日常的に眼にしたり、聞いたり、あるいは想像することは、その境界が乏しく、分けられていない。あるものを表現する際に、世界を分断するための言葉を使うと、自分自身が考えていることとは違う表現になることがよくあるはずだ。自分が感じたことを記述するように促されても、詩人や小説家でない限り多くの人は戸惑うだろう。まして、その感覚を他人に伝えることは、さらに難しいはずだ。他人の言葉に全面的に同意出来ないことも、自分がイメージで考えていることを言葉で表現し他人に伝えることが難しいことも、実際の世界と、「分類」された言葉で表現された世界との落差による。もちろん、言葉(語彙)が豊富な場合は、イメージに近いように表現することができるので、違和感は少なくなるかもしれないが、それでも多少の違和感は残るだろう。

現代社会は、人と人が直接出会い交流するよりも、言葉による交流が大部分を占めている。日頃のネットや既存のテレビなどの媒体からの情報に頼っていて(あるいは支配されている)、自分を返り見るとそれは明らかだろう。現代では言葉を介する以外に情報を伝達する手段は乏しい。なおさら、言葉の重要性が増していると言える。しかし、近年言葉が軽くなり、深みのある表現は遠ざかっているようだ。それは、短い文章ですべてを表現するべく強制される事が多いためでもある。それが出来れば効果的ではあるが、短い言葉で意味を十分伝達することは出来ない相談だ。

言葉が世界を分断し、一方的な解釈を押し付けたり、また、受け取ったりする危険性は増している。マスメディアやネット上での言葉は、それ自体が一定の意味を持ち、また、同時に受け取る人によっても異なる意味を持つ場合もある。言葉を使用した方が言葉に責任を持つべきで、受け取ったほうが責任を持つわけではない。そのため、言葉の使い方には細心の注意が必要だ。

公益財団法人橋本財団 理事長、医学博士橋本 俊明
1973年岡山大学医学部卒業。公益財団法人橋本財団 理事長。社会福祉法人敬友会 理事長。特定医療法人自由会 理事長。専門は、高齢者の住まい、高齢者ケア、老年医療問題など。その他、独自の視点で幅広く社会問題を探る。
1973年岡山大学医学部卒業。公益財団法人橋本財団 理事長。社会福祉法人敬友会 理事長。特定医療法人自由会 理事長。専門は、高齢者の住まい、高齢者ケア、老年医療問題など。その他、独自の視点で幅広く社会問題を探る。
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