私の第二の故郷、岡山 Okayama: My Second Home

今回のインタビューを行うために、私はMさんと小さなカフェで会いました。彼女に会うのは、3年ぶりです。私はコーヒー、そしてMさんはオレンジジュースを注文しました。ところが店員さんは、「今、季節限定の新しいオレンジジュースもあります」と言って、私に説明し始めました。

このようなことは初めてではありません。ほとんどの場合、店員さんは迷わず私に向かって話しかけます。「駐車券はお持ちですか?」、「お連れ様は、英語のメニューが必要でしょうか?」Mさんは私が生まれる前から日本に住んでいて、日本語レベルは私よりもはるかに上回っています。

Mさんは30年前に来日し、大学講師、雑誌編集者、観光事業アドバイザーなどの肩書をもつ多才な人です。Mさんの、移住者としての居場所作りの能力と、ニューカマーのためにドアを開け続けるための活動には、この数年間私自身も多く学ぶことがありました。彼女は私のメンターでもあります。

<< このインタビューは英語で行われました。元の語り自体はほとんど変更されていません。このインタビュー内容の公開については、Mさんの同意を得ています。>>

I. first impressions

――日本に来た時の印象を教えてください。

1992年7月。私は JET Program (語学指導等を行う外国青年招致事業)で日本に来ました。東京から飛行機で岡山に到着すると、とてもきれいだったのが印象に残っています。


私たち JET Program の10人はアパートに引っ越すはずでしたが、空きがなかったため、ホテルサンルートに1ヶ月間滞在することになりました。私たちにとって、それ自体がカルチャーショックでした。ホテルの朝食はバイキングでした。でも、滞在が終わるころにはバイキングはなくなってしまいました!なぜなら、日本人に混じってアメリカ人がライスプディング (rice pudding = ミルク粥)を食べていたからです。「米に砂糖とミルクをかけるなんて冒涜だ!」と思ったのでしょう。

日本での暮らしは、夢のようでした。本当に好きでした。今は状況は少し変わりましたが、私が感じたエッセンスはまだここにあると思います。

ほとんどの人は外国から来た私たちに好奇の眼を向けました。でも親切でした。まあ、日本語が十分ではなかったので、その時の私たちには理解できないこともありました。でも、日本語を勉強すればするほど、わかるようになりました。だから、温かく心地よいものばかりではないことがわかってきました。確かに私たちはそういう意味においては無知でした。ネガティブなコメントもありましたが、それは世界中どこにでもあることでしょう。

II. home-work

私にとって「ホーム」とは、空間と、その場所にいる人たちから得られる感覚を合わせたものです。私は故郷であるニュージーランドで、のどかな子供時代を過ごしました。まだ、これほどテクノロジーが発達する前のことで、学校に行き、勉強し、外で遊びました。そういう意味では、最近のようにいろいろなことを気にする必要がありませんでした。人々が作り上げた、気にしなければいけないことを気にする必要がなかったのです。

何度も、ニュージーランドに「帰りたい」と思ったことがあります。でも実は、よくよく考えてみると、以前と同じように「帰る」ことはできないんです。私は日本のマナーや礼儀、ある程度の生活様式になれました。しかし、これらはニュージーランドでは同じように存在しないものです。

岡山には、私が生まれ育ったニュージーランドと同じくらい素晴らしい特質がたくさんあります。私の第二の故郷です。どちら(ニュージーランドと岡山)も安全で、家族の絆をとても大切にしています。私は幸運にも、早くから夫と出会いました。彼は私のバランスを取ってくれています。

――どんなふうにですか?

彼は私とは正反対です。私はとても野心的です。何かをするときは、150%の力でやります。彼はそうではありません。でも、彼は優しくて、私の短気な性格に付き合ってくれています。日本語も含めて、彼のサポートが必要なのです。

彼は専業主夫です。一人目の子供が生まれたとき、私は外に働きに出たかったので、彼が子育てをすることになりました。23年経った今でも、彼の両親は「彼はいったい何をしているのか?」と言っています。日本人男性が23年も社会人としての空白期間があると、「今まで何をしていたんだ?」と言われてしまうのです。といって今さら仕事には戻れないんです。

しかし、子供たちにとっては、父親が家にいてくれてとてもよかった。恩恵を受けていると思います。彼はPTA会長で、地域活動にも参加して、いつもいろいろなことをしています。日本では主に女性がやってきた、そして、し続けていること ー 家事や家族・地域社会の運営など、「女性の役割」と思われていることには、ビジネスシーンでももっと評価されるべきスキルがたくさん含まれています。本当に、女性はすごい。しかし、こうしたスキルは男性社会ではなかなか「仕事」として認められず、認められるまでにはまだまだ障壁があります。

私の周りでも、子育てが一段落して仕事に復帰した女性が、非正規社員として低賃金で過小評価されながら働くことが少なくありません。私の知人の多くは、子供が少なくとも中学生になるまで仕事を離れています。履歴書には15年分の空白期間があります。

私の夫もそうした人々の一員なので、このような話をよく耳にし、私に教えてくれます。「自分はこういう能力を持っている」と自覚していても、「こうあるべき」と規定する社会的構造によって、そうした能力を発揮しづらい人もいます。

私は彼女たちに「能力を生かすことができるのよ」と伝えますが、多くの人は信じてくれません。外国人の私に何がわかる、と思うのでしょう。これは世界中どこでもよくあることだと思います。女性たちが自身の能力を生かすことができると思えるようになるためには、さまざまな価値観に触れる必要があります。

III. places

私はマオリのバックグラウンドを持っています。マオリ族の文化では、土地は自分のものではありません。ですから、土地に対する特別な愛着はありません。でも、私は、特定の場所で経験したことには愛着があります。マオリ族にとって、土地は「持つ」ものではなく、「預かり」世話をするものです。次の世代のために私たちはその土地を大切にしなければならないのです。

土地を所有するという概念に、どこか神聖なものを感じている人もいると思います。これは日本に限ったことではありませんが、土地への愛着という気持ちを持っている人はいます。しかし、私が農村部の活性化やフードセキュリティー(食料安全保障)の活動を通じてかかわっている農村地域は、移住者や若者など、人を求めています。現在、そして将来、その土地に住み、働き、所有するようになるかもしれない人々は、日本人ではないかもしれませんが、再生と農業に献身的に取り組んでくれるでしょう。岡山には、新しい人たちにチャンスを与えてほしいのです。

IV. changes

岡山出身であることに誇りを持てばいいと思うんです。和歌山じゃないんです、岡山なんです!本当に美しい、素晴らしい県です。すごい人がいて、歴史上の人物がいて、いい会社がある。ここで育って、すごいことをする子供たちがいる。

――岡山県人であることを誇りに思うことをあなたの子どもたちに伝えているのですか?

そうですね。正直なところ、子どもたちは私の言うことをあまり聞いていないと思います。具体的にあまり意味が分かっていないと思います。「外国人」である母親をもち、自分たちはそうではないと思っている。町に出て「外国人」を見ると、「ああ、外国人だ」と言うの。

「あなたたちもよ」と思う。多少はね。でも、彼らはそうは感じていない。

――でも、子どもさんたちは日本で生まれたんですよね?

そう、彼らはニュージーランドのパスポートも持っている。でも、彼らは日本人であることを自覚している。彼らの主な言語は日本語だし。

――そういう意味でのお互いの関わり方については、どのようにお考えですか?私の母は日本人で、私自身は自分のことをどう考えていいのかよくわからないです。ですから、私たちはよく、アイデンティティについての考え方や、ここでの所属についてよく話します。

親としての私の役割は、彼らが活躍できるような最高の環境を整えることだと考えています。強く、健康で、好奇心旺盛であること。それが私の役割だと思っています。アイデンティティは多くの人にとって本当に大切なものだと思いますが、このような視点から見れば必ずしもそうとは言えません。

――アイデンティティはとても流動的なものでもありますね。

まあ、子どもたちは自身のことを日本人だと思っている、というのは私の認識でしかありません。それについて子どもたちとあまり深く話したことがないのです。そのためには、双方が洗練された言葉を使う必要がありますが、私はまだ日本語がそのレベルではありません。あなたとお母さんとの会話に憧れますね。

私の時代は、生まれた国に愛着を持つのが一般的だったのかもしれません。でも今は、一生のうちにたくさんの文化に触れることができる時代です。人々は自分のアイデンティティを再構築しているのです。その一方で、自分を定義することで、自分自身や他人を箱の中に閉じ込めてしまうことがあると思います。他の人々が、自身の望むもの(自分が何者かという定義)を選択し、識別することについて、私は尊重します。ただ、私自身は、あえて(自分の定義を)選択しません。

私にとって、アイデンティティとは変わっていけるものです。時とともに変化するものです。岡山にはポリネシア人が少ないので、それほど顕著ではないと思いますが、年齢を重ねるごとにマオリの伝統を感じるようになりました。

――この数年で変わりましたか?

ここに来てから、アグレッシブさが少なくなりました。まだ、ゴーゲッター(go-getter = 野心家)ですけれど、年齢とともに、よりソフトになりました。でも、昔の自分を探そうとしているんです。ちょっとヒッピーっぽいですね。

日本に来たばかりの時は、「郷に入っては郷に従え」と思い、「日本人」らしくなるために、たくさん(自分らしさを)曲げようとしました。それ(日本人らしさ)が具体的にどういうことなのかはわかりませんでしたし、今でもわかりません。しかし、そんな時、息子が聴覚障害者と診断されました。私は一生懸命働いていたので、彼がそんな目に遭っていることさえ気づきませんでした。それがあってから、自分は変わらなければいけない、と思いました。

そして、再び自分の「キウイらしさ」(ニュージーランド人 = キウイ)を見つけようとしました。でもそれも、日本に来る前の自分がどうだったのか、もうはっきりと思い出せないので、難しいです。故郷の友人たち、彼らが私のことを覚えていてくれるからこそ、私の支えになっているのです。あの頃の私には何かがあった、その本質を思い出せれば、それが私のやりたいことの背中を押してくれるのだと思うのです。

onwards

私は今、54歳です。私にはまだ実現させたい夢や願望があります。私の第二の故郷である岡山で、人々のためになる有意義なことをしたいのです。

――私が岡山に来たばかりの頃、私をウェルカムしてくれたのは、Mさんでした。ある意味、Mさんがすでに自分の居場所を作っていたから、ニューカマーにも小さな居場所を作ってくれたように感じました。

というのも、私がニュージーランドで18歳のときに市議会議員に当選したとき、誰もが私に「君は若すぎる」と言ったのです。たぶん、あなたもそう言われるでしょう。年齢は仕方ありません。でも、どんな年齢の人でも、もちろん子どもでも、耳を傾ければ大切なことをたくさん教えてくれます。

私たちは、何歳になっても、成熟しているとは言えないのではないでしょうか?私は54歳ですが、まだまだです。若い世代の人たちが知っていることを受け入れることに、人は心を閉ざしてしまうものだと思うのです。

希望を持てるのは、日本では教育がかなり行き届いているので、優秀な人がたくさんいることです。日本や世界では洪水など、自然が怒っている(気候危機の)中でも、正しいことをする、良いことをする、という方向にシフトしていけると思います。

ソシエタス総合研究所 研究員秋吉 湖音
日本で生まれ、海外で育つ。King’s College London (BA in War Studies & Philosophy) 卒業後、King’s Undergraduate Research Fellowとして、ロンドンで移民達がいかに暮らしを営んでいるかの理解を目的として、特に法的なステータスとジェンダーのインパクトに焦点を当てつつ、Migrant Voices in Londonのプロジェクトを主催。つづいて、オックスフォード大学にて MSc in Refugee and Forced Migration Studies を修める。2021年4月からソシエタス研究所で研究員として勤務。
日本で生まれ、海外で育つ。King’s College London (BA in War Studies & Philosophy) 卒業後、King’s Undergraduate Research Fellowとして、ロンドンで移民達がいかに暮らしを営んでいるかの理解を目的として、特に法的なステータスとジェンダーのインパクトに焦点を当てつつ、Migrant Voices in Londonのプロジェクトを主催。つづいて、オックスフォード大学にて MSc in Refugee and Forced Migration Studies を修める。2021年4月からソシエタス研究所で研究員として勤務。
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