以下の物語は、佐々木閑氏「犀の角たち」に記載されているインドの話である。
昔、釈尊がおられた時代のことである。シュガーバスチィという大きな町のお金持ちに、かわいい娘が1人いた。その娘はお金持ちのお屋敷で召使に囲まれて幸せに暮らしていた。年頃になって、そろそろ婿をもらおうということになり、両親は家柄の良い若者を探してきて、娘と結婚させようとした。ところが、この娘は屋敷で働いている召使いの青年に恋をして、この青年と一緒になりたいと望んでいたのである。両親の選んできたお婿さんと結婚するのが嫌で、とうとう娘と召使の青年は駆け落ちしてしまう。そして2人だけで森の中に入り、誰からも邪魔されることのない幸せな結婚生活を送っていた。そうするうちに2人の間には男の子が2人生まれ、夫と2人の幼子に囲まれた娘の生活はすっかり落ち着いて安らかなものになってきた。
そんなある日のこと、嵐が来たので、夫は家の補強材を手に入れる為、森へ木を切りに出かけた。ところがその夫はいつまでたっても帰ってこない。娘は心配で2人の子供を寝かしつけた後も、まんじりともせず一夜を過ごした。翌日、娘は日が昇ってから森の中に夫を探しに行った。すると娘は冷たくなって倒れている夫の姿を発見する。毒蛇に噛まれてそのまま死んでしまったのだ。娘は悲しみのあまり地面に倒れ伏して泣きじゃくったが、いくら泣いても助けてくれる人はいない。それでも何とか気を取り直した娘は、子供を連れて両親の元に戻り、親の援助で子供を育てようと決心する。
そこで幼児2人の手を引いて生まれ故郷のシュガーバスチィに向かってとぼとぼ歩き出した。やがて目の前にゴーゴーと流れる川が出現した。普段は、小さな小川なのだが、前日の大雨で急に水かさが増したのだ。とても渡れない。1人ずつ抱っこして渡すしかない。娘は、小さいほうの子を岸辺に残し、お兄ちゃんを抱っこして激流に足を踏み入れた。流されそうになるのを一生懸命踏ん張りながら、ようやく川の中ほどにさしかかった。残してきた、小さい方の子が心配で振り返ったとき、彼女は恐ろしい風景を見る。巨大な鷲が空を旋回していたと思うと、岸辺に立った自分たちのほうをじっと見つめている幼子の頭に襲いかかり、つめでつかむと連れ去って行ってしまったのだ。あまりのことで気が動転した娘は叫び声を上げた拍子に抱っこしていったお兄ちゃんを落としてしまう。激流はたちまち子供を飲み込み、子供の悲鳴もかき消えていく。茫然とした娘は、ほとんど正気を失ったままフラフラと川を渡り、無意識のうちに実家へと向かって歩み続けた。すると途中で昔の知り合いが彼女を見つけ、そして前日の洪水で彼女の実家が流され、両親はじめ、家族の全員が死んでしまったという報せを告げた。この時、娘は気が狂った。焦点の定まらない目で町から町村から村へとさまよい歩く彼女の衣服は、やがてボロボロになってはげ落ち、裸女となった。人々は、この女を「ポロユキさん」と呼んでからかい追い払った。
やがて、この娘パターチャーラーは、ジェーダバナという場所へやってくる。そこにはうつくしい森の中、釈尊のために建てられた立派なお寺があった。祇園精舎である。そのとき、釈尊は 多くの人たちに向かって説法をしている真最中だった。突然現れた裸のパターチャーラーに驚いた人々は彼女を追い出そうとする。しかし、それを制した釈尊は彼女においでと声を掛け、そして優しく語りかけた。一体何があったのかねと。その釈尊のやさしさに以前の記憶を取り戻したパターチャーラーは、自分の体験したことをゆっくりと話し始めた。それを聞いた釈尊は人の死というものが決して避けることのできないものであること。しかし、その死の悲しみ、苦しみに打ち勝って、真の安らぎを得る道があることを説いていった。
「来いよ、パターチャーラー。わが 僧団はお前のようなもののためにある。私の元に来い。」こうして比丘尼となったパターチャーラーは僧団の中で、修行に励み、そして悟った。その後、パターチャーラーは立派な比丘尼として後輩の指導に当たり、自分と同じような境遇で悲嘆に打ちのめされた女性達を励まし勇気づけ、みなから敬愛されたと言う。
パターチャーラーのような悲劇は普通めったにない。一日で夫と子供と両親が死んでしまうなどという不幸は非現実的だと、読者の皆様は考えただろうか?しかし、よく考えてみれば、そんな例はいくらでもあるではないか。戦争や大災害は、我々の日常のほんの目と鼻の先に潜んでいる。そういった特殊な状況でなくても、全くの日常生活の中にさえ底なしの不幸は突然現れる。
すべてを失ったパターチャーラーはサンガ(僧団)の組織によって救済された。普通考えられないような悲劇に見舞われた人でも、考え方を変えることによって力強く生きていくことが出来るとブッダは示している。いわんや、日常的に起こる悲劇は、これ程ばかり悲惨ではないだろう。しかし、多くの人は悲劇に見舞われるとその時点で人生を投げ出す場合も多い。しかし世の中は、諸行無常、つまり一定に留まることがない、すべてのものが変化し、消滅しているのだということを理解して、自分だけが苦しんでいるのでなく、一見幸せに見える人にもいずれは死が訪れ、すべてのものは無に期することを考えて生きる必要があるのだ。大きな川の流れの中に自分や多くの人は漂い、流れているのである。その流れは止めることが出来ない。諸行無常は、全てが虚しいこと、つまり、人々は大きな流れの中にいて、そこからは逃れることが出来ないこと、すべてのものは変化すること、そして何事にも執着する必要がないことを述べてはいる。しかし、その中でも、日常的欲求が禁止されるべきではない。人間は生物である以上、生理的な欲求あるいはそれ以上のものが沸き起こる。欲求を殺して生きるわけではなく、流れながら自分の思うような生き方をすればよい。ただし、諸行無常を基礎として、大きな流れの中に自分がいて、他者もいること、そして、全てが流れの中で浮き沈み、消滅を繰り返すことを理解しなければならないのだ。
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