「治る(なおる)」と「癒る(なおる)」

「全人的医療」の定義とは。

カナダのケベック州にMcGill(マギル)大学という有名な大学があります。日本でいえば東京大学か京都大学のような評価を受けている大学です。北米でトップ5に入るといわれていて、カナダでトップの医学部を持っています。
ここではユニークな医学部教育が行われていて、「Whole Person Care(全人的医療)」、をすべての医学生に教えているのです。それを専門に教える講座がありMcGill大学医学部生全員が「全人的医療」をマスターしてから卒業します。

全人的医療とは、日本の医療界でも良く使われています。日本でも医療者はすべからく全人的医療を行うべきだと教えられますし、患者さんもそれを行うことを期待します。
全人的医療という言葉は大変魅力的で、行うことに誰も異論はありません。しかし、実際にはどのような医療を行うべきなのか、曖昧模糊としているのが現実です。なんとなくみんなが考える、良いと思われることを、それぞれの立場で、なんとなく各自で努力し、実行しているのが現状だと思います。
要は医療者の倫理観や、善意に頼っているのです。定義がはっきりしていないので、医師は誰でも全人的医療を行っていると思っています。


マギル大学で行われている全人的医療についてご紹介します。

この本はマギル大学のトム・ハッチンソン先生が編集された「Whole Person Care」という本です。ハッチンソン先生は、先日神戸で開催された日本臨床腫瘍学会に招かれ、講演されました。
その中で従来医学部で教育されてきた医療と、あるべき全人的医療の姿の違いを理論的に示されました。全人的医療はCure(治す医療)とHeal(癒る医療)を同時に行う医療であると定義されました。

医療はCure「治す」ことを唯一最大の目的としてきた。

Cure(治す医療)というのは西洋医学がずっと目指してきた医療です。つまり原因を突き止め、その原因に直接介入することで病気が「治る」、治癒することを目指す医療です。西洋医学が日本に導入されて以来、ずっと私たちは医療において治癒を目指してきました。

日本の医学部では病気の原因、病態生理を学びそれに直接アプローチすることで、その病気を治すことを教えてきました。医学研究においても、「治す」ことを中心に研究してきました。
患者さんも病気が治ることを目的に医療を受けることが当たり前と思ってきました。患者さんと病気は一体で、病気を治せば即ち患者さんも幸せになると考えられてきました。こういった思いは高度成長期で全てが進歩して、あらゆることが可能になると思われた時代の産物であったのかもしれません。

我々はいつかは死を迎える、治すことのできない病もある。

  冷静になって考えれば、私たちは皆いつかは死を迎えます。病になった時に、様々な手を尽くしても治癒を期待できない病があることを、薄々感づいています。長い間、死が身近にあった時代においては、死を語ることが当たり前だったのです。ところが、今では死をおもてだって語ることをやめてしまいました。幸せの青い鳥を探すように、私たちは「Cure、治る」を求め続けてきたのです。

「治る」と「癒る」、医療が私たちに与えてくれるもの。

私たちは医療に何を期待するのでしょうか? 「治る」ことのみを期待するのであれば、医療はそれに期待できないことがあることが、お分かりだと思います。
その時に医療は我々に何を与えてくれるのでしょうか?医療は我々を見捨ててしまうのでしょうか?
それは、これまでもこれからもずっと否であります。マギル大学で教える全人的医療とは、例え治らない病気であっても、癒ることで患者さんが幸せになる医療であると教えています。全人的医療は治るをめざすと共に、患者さんが癒るように支える医療であると、定義されています。

何のために医療を受けるのか。

もう一度振り返ってみましょう。私たちは何のために医療を受けるのでしょうか。「治るため」と答える方が多いと思います。しかしながら治る病気ばかりではないことは、すでに述べた通りです。さらに、私たちは多くの患者さんが治療を受け続けるために、多大な努力を払っておられるのを目にします。治療があるから、子供のことを犠牲にして治療を受ける。治療があるから、したいことを我慢している。治療があるから、行きたい所に行かない。治療があるから、欲しいものを我慢する。治療があるから、医療者に言いたいことも言えない。治療があるから…。


私たちは私たちのかけがえのない日常生活を送るために治療を受けるのです。治療のためにあらゆることを我慢して治療を受けるのは、本末転倒ではないでしょうか。病気が良くなったらあれをしたい、良くなったらこれもしたい。そう思うのであれば、それが今できるように医療者に相談すべきではないでしょうか。

今という時間は本当に大切なものなのです。私たちは幸せになるために医療を受けるのですから。

医療によって幸せになるためには。

私たちが医療によって幸せになるためには、どうしたらよいのでしょうか?従来の医療では「治す」ことが幸せにつながると考え、そのように教えられてきました。しかし、そうではないことが次第に明らかになってきました。
例えば、がんの患者さんを例にとってみましょう。手術で切除すれば治ったことにはなりますが、それで全ての人が幸せになれたと言えるのでしょうか?
そうではないこともあります。例えば手術で変形が残ったり、機能的に改善が見られなかったりすると、患者さんは幸せを感じられないことがあります。
あるいは外見的には完全に治ったと思われる患者さんでも、幸せを感じられない方もあります。「治す」ことが必ずしも幸せにつながらない例です。

逆に、もう治らないと言われた患者さんは幸せになれないのでしょうか?
私たちは、そうではない例を多く見てきています。治癒が期待できない患者さんがおられるホスピスの患者さんたちの中には、平穏で幸せな毎日を、ご家族と共に過ごしていらっしゃる方が多くおられます。そこでは、笑顔と平常と変わらない幸せな日常が存在しうるのです。


たとえ治らなくても「癒る」ことで、私たちは幸せな毎日を過ごすことができるのです。医療者は患者さんが「癒る」ことができるように支援します。それが全人的医療なのです。


次回はどうやったら「癒る」ことができるような医療が提供できるのかをお話したいと思います。

岡山大学大学院ヘルスシステム統合科学研究科教授松岡 順治
岡山大学大学院医学研究科卒業 米国留学を経て消化器外科、乳腺内分泌外科を専攻。2009年岡山大学大学院医歯薬学総合研究科、緩和医療学講座教授、第17回日本緩和医療学会学術大会長。現在岡山大学病院緩和支持医療科診療科長、岡山大学大学院保健学研究科教授 緩和医療、高齢者医療、介護、がん治療の分野で研究、臨床、教育を行っている。緩和医療を岡山県に広める野の花プロジェクトを主宰している。
岡山大学大学院医学研究科卒業 米国留学を経て消化器外科、乳腺内分泌外科を専攻。2009年岡山大学大学院医歯薬学総合研究科、緩和医療学講座教授、第17回日本緩和医療学会学術大会長。現在岡山大学病院緩和支持医療科診療科長、岡山大学大学院保健学研究科教授 緩和医療、高齢者医療、介護、がん治療の分野で研究、臨床、教育を行っている。緩和医療を岡山県に広める野の花プロジェクトを主宰している。
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