最近の脳科学の知見によると、人間が五感(視覚、聴覚など)で感じるもの多くは、「錯覚」であると言われる。人間の認知システムは間違いが多すぎるのだ。視覚を例に取ってみよう。目に入っている光が網膜に写り、網膜の視覚細胞を刺激する。しかし、網膜では人間が認識するような像を作っているわけではない。単なる光に刺激された細胞の興奮に過ぎない。レンズ(水晶体)と網膜の構造は、よく教科書で見るような、カメラのような構造ではないのだ。人間が認識する視覚の世界は「脳」で作られる。不十分なはっきりとはしない網膜の神経細胞からの刺激をもとにして、脳は以前記憶されている像を参考に、それらしい視覚として表される像を作り上げるのだ。その上、脳は作り上げられた像に関するいろいろの感覚、例えば、素晴らしい景色だ、おっと危ない車が近づいている、可愛い子がいるな、見慣れた故郷に帰ってホッとする、など、視覚によって呼び起こされる数多くの「感情」を伴わせる。これらの感情は、「作られた像」に伴って生じるので、像が間違っている場合には、感情も間違っていることになる。つまり、視覚で感じるものは、少しの外部データを、脳によって大幅に加工しているものであり、それに伴う感情も脳で作られた感覚に伴って形成された「錯覚」に近いと言える。
しかし、感覚が間違っていようと正しかろうと、それに伴う感情は心を強く惹きつけ、虜にする。従って、間違いが多い感覚に基づいて作られた感情には正当性が乏しいので、感情は一旦疑ってかかることが必要となる。疑ってかかることは、何もしないことではない。感情の出現を、反省することである。時に、感情が間違った感覚から生まれるのであれば、感情を野放しにすることは危険であり、危険なものの取り扱いに注意するのは当然だ。
多くの人は、感情と理性とのギャップに悩む。例えば、ある人に対して嫉妬の感情が出現した人は、その感情が必ずしも正当なものとは思わない。そうすると、その感情に左右される自分に嫌気がさす。この悩みは、自分が嫉妬する感情から抜け出せないことによって起こる。そのために、嫉妬の原因を捻りだし、理屈をつけ自分を正当化する。このように、理性は感情に勝てないことが多く、理性は感情のコントロール下にあるのだ。行動については、理性によって踏みとどまる事ができるとしても、感情を取り去ることは難しい。問題は、感情が湧き上がることを制御できない点にある。これは自分が自分の主人であることを放棄したのも同然だ。
しかし、考え方によっては、感情に振り回されることでの悩みは、逆に自分が自分の主人であることを放棄することによって逃れることが出来るかも知れない。それには、「感情を観察する」必要がある。湧き上がってくる感情を観察することは難しいかもしれない。なぜなら、感情を引き起こす刺激は、視覚や聴覚であるが、刺激によって認知される視覚や聴覚自体が、はなはだ頼りないにも関わらず、人は視覚や聴覚を信じ切っている。不十分な感覚に伴って湧き上がる感情に支配されず、感情を眺めることを可能にしなければならない。感情は観察されることを嫌う。そのため、苦し紛れに理屈をひねり出し、あたかも、正当性があるように擬態する。その様な理屈は、理屈そのものではなく、感情の観察ができない結果である。
この様に考えると、視覚、聴覚などの感覚ははなはだ頼りなく、それに基づく理性とは、感覚とともに湧き上がる感情についての言い訳にすぎないように思われる。事実、議論の場で自分の主張を述べることが出来ないのは、その場で最初に感じた自分自身の感情を客観視して、その内容を述べることが出来ない、つまり感情の観察が出来ないのがその理由である。自分の感じたこと(感情)を観察することが出来ず、よくわからない状態で、議論をせよと迫られても、それは、理性が出す、通り一遍の意見にしか達しないだろう。自分独自の意見は、直感的感情からしか起こり得ないものであり、その直感的感情を観察できない、あるいは、説明できないことは、まともな意見を持つことが出来ないことと同じである。素直に湧き上がった自分の感情を吟味し、疑い、観察できてこそ、感情に基づく意見が生まれるのだ。
例えば、会議である人の意見に感情的な反発を感じたり、大きな共感を経験することは普通によくあることだ。この様な、反発や共感は議論の土台となる。しかし、これらの反発や共感の感情のみでは、まともな議論は出来ないと多くの人は考えている。しかし、本当はこれらの感情的なものを素直に発言することによって、自分自身で自身の感情を観察することが可能となり、自分の意見が形成され、会議での発言が出来るようになるのだ。
感情を観察することは、一時的に感情を抑えることとは少し異なる。感情が減少すれば、つまり、深呼吸をして感情を押さえればそれでよいわけではない。感情の観察することは、感情の嵐が過ぎ去った後、嵐の始まりから、その経過、行く先を辿っていくことである。この様に感情の観察は自我を揺るがし、自我が万能であるとの神話を揺るがすのだ。
河野雅氏による感情の観察イラスト
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