終末期を考える-人生最期の在り方を学ぶ

ご存じの方もいるかと思いますが、多くの消化器癌の中でも膵臓癌はいまだに早期診断が難しく、見つかった時にはすでに相当に進行していることが多いのが実情です。それは、診断時、一番良いとされるステージⅠが6.0%しかなく、最悪のステージⅣが48.1%と約半分を占めるという統計にも表れています。さらに、手術や抗癌剤治療を駆使しても、5年生存率は一番早期のステージⅠでも39.9%、ステージⅣでは1.3%に過ぎないという数字が、厳しい現実を端的に示しています。

さて、そんな膵臓癌にかかったものの、その厳しい現実と向き合って、素晴らしい「生命(いのち)」を生き抜いておられる女性、あるいは生き抜かれた女性がおられます。治療を通じて、深い感銘を受けましたので、そのお二人について、ここでご紹介したいと思います。

一人目の方は80歳を前にした女性です。4年前に膵臓癌と診断され、大学病院へ紹介したものの切除不能と判断され、当院で抗癌剤治療を続けている方です。最初にお示ししたように、「切除不能」と言われた進行膵癌で4年を過ぎて生存されていること自体驚きですが、それには理由があったようです。

実は、4年前、彼女が膵臓癌と診断された少し前に、ご主人が肺癌の手術を受けておられ、数か月前にお亡くなりになっていたのでした。ご主人の肺癌も進行癌で、手術で切除はできたものの、そんなに長くはもたないだろうと言われたそうです。このため、ご自分の膵臓癌が見つかった時、「主人の世話を最後までしたかったので、手術できないと言われた時には、かえって良かったと思ったんですよ」と良い方に考えることにしたそうです。そんなこととは露知らず、ひたすら抗癌剤治療を継続することに専念していたわけですが、幸いにも癌の縮小がみられ、当初の予想を大きく超えて4年間を過ぎて生存できているということでした。(ところで、ご主人も、この方の介護のお陰か、予想以上に生存されたということになりますね。)

「先生のお陰で主人をきちんと送ることができました」と言われた時には、何も知らなかった自分を申し訳なく思ったことでしたが、彼女のやり遂げたとでもいった爽やかな表情に救われたのは事実です。

そして、ご主人が亡くなってから1か月後に行った定期検査で、これまで落ち着いて経過していた検査データの急激な悪化がみられたのでした。私は、ほっとしたことで癌の方が勢いを復活させたのかと思いはしましたが、当のご本人は「責任を果たせた」とでもいった面持ちで、データの悪化などの説明を淡々と受けとめておられるように見え、彼女なりの覚悟がみえた気がしました。

幸い、もう一度説得して行った新しい抗癌剤治療で軽快してきておられますが、どうなるにせよ、ご自分の人生を生き抜かれ、またこれからの残りの人生も自分のお考えで生き抜かれるであろうと思われ、その覚悟を決めた爽やかな生き様に感動しています。

二人目の方は、70歳代の女性です。2年前に膵臓癌と診断され、やはり大学病院へ紹介しましたが切除不能と診断されました。この方の場合は、抗癌剤に放射線も組み合わせて治療することになり、大学で入退院を繰り返しながらの治療が続けられていました。

そんな治療の中で、調子が悪い時などには、私の診察に来られていたのでした。最期が近づいた頃になって娘さんから聞かされたのですが、10年も前に大腸癌を手術させていただいていたことから、私を「主治医」と呼んで下さっていたようで恐縮したものです。

そんな彼女が、ある年の暮れ近くになって、「そろそろ大学での治療も限界なので、近くでの緩和ケアを勧められました」と、私の外来に来られたのでした。この方も、太っ腹母さんといった面持ちの方で、あっけらかんと「大腸は先生に治してもろうたけど、今度はダメみたいやわ」と単刀直入に言われ、こちらが面食らうことになりました。

「入院する時期は、自分に決めさせて」ということで、しばらくは外来で経過を観ていましたが、年末になって「先生、入院するわ」と着替えなどの用意をして来院されました。今回の入院がどういう意味合いのものかを考えると、複雑な心境でしたが、付き添う娘さんも「よろしくお願いします。もう、母が決めたことなので」ということで、「明るい入院」となったことでした。

入院後も、「もう、家に帰らんでもええようにしてきたし、ここで送ってもらうわ」と言われ、私が部屋を訪れてるたびに、「先生、1月中で逝かしてえな」とおっしゃいます。「いやあ、そう言われても出来ることと出来へんこととあるし、あとは神様に聞いてもらわんと」と、こちらも同じ調子で返すと、「そりゃそうやわな。先生に無理いうて困らしたらあかへんわな」と、ニヤッとされ、話題が変わっていきます。

幸い、この方の場合、痛みもないことから、個室を良いことに差し入れを持ってきてもらって、好きなものを食べていただくことにしていました(コロナ禍の前のお話しです)。

そんなことが続いた1月下旬のある日、「先生、ちょっと痛くなってきたわ」と初めて弱音を吐かれ、早速、医療用麻薬を開始することになりました。そして、それから数日の間は、「先生、よう眠れるわ。最近はこんなに熟睡したことなかったさかい、気持ちええわ」と嬉しそうに言われたのでした。

「それはよかった。そんな調子で熟睡している間にお迎えが来るといいですね。中には痛みで苦しみながら逝く人もありますからね」と、こちらも本音で答えることになりましたが、そんな私に、「そうか、それがええな」と、微笑まれたのでした。

その次の日、念のためにとご家族をお呼びして、「状態が悪化してきており、ここ数日、早ければ今夜のこともあります」と説明をすることになりました。ところが、その説明の最中に、詰所から脈拍が落ちてきたとの連絡が入ったのでした。

時々あることですが、ご家族だけに説明をしているのに「ご本人がどこかで今の話を聞いてたんかいな」と思わされることがあるもので、ご家族からは「先生のおっしゃる通りでした。先生に送って欲しかったんだと思います」と言っていただくことになりました。

死亡確認をした後、娘さんが「先生が、『しっかりした方で弱音も吐かず、素晴らしい生き方の方だと思います』と言ってくださったことを耳元で話したら、少し微笑んでくれたように思います」と言ってくださいましたが、何も言えずに頭を下げることしかできませんでした。

結果的に、ご自分で言っておられたとおりに1月中に逝かれるとは、主治医としてはもう少しお話をしたかったと残念でしたが、ご自分の希望通りのこんな逝き方もあるのだと感心させられたことでした。

そして、こうした「逝き方もあっていいんだ」と思い知らされた時、実は、これこそが「良く生きる」ことそのものなのではないかと気付かされたのです。

さて、お二人の女性の病気との付き合い方について、皆さんはどのようにお感じになったでしょうか。私もいずれその時が来た時、どのように見送ってもらうのか考えていこうと思っていますが、このお二人との経験から、「今をしっかり生きること」で到達できる場所が見つかりそうな気がしてきています。

医療法人 寺田病院 院長板野 聡
1979年大阪医科大学を卒業後、同年4月に岡山大学第一外科に入局。
専門は、消化器外科、消化器内視鏡。
現在の寺田病院には、1987年から勤務し、2007年から現職に。
著書に、「星になった少女」(文芸社)、「伊達の警察医日記」(文芸社)、「貴方の最期、看取ります」(電子書籍/POD 22世紀アート)、「医局で一休み 上・下巻」(電子書籍/POD 22世紀アート)。
資格は、日本外科学会指導医、日本消化器外科学会指導医、がん治療認定医、三重県警察医、ほか。
1979年大阪医科大学を卒業後、同年4月に岡山大学第一外科に入局。
専門は、消化器外科、消化器内視鏡。
現在の寺田病院には、1987年から勤務し、2007年から現職に。
著書に、「星になった少女」(文芸社)、「伊達の警察医日記」(文芸社)、「貴方の最期、看取ります」(電子書籍/POD 22世紀アート)、「医局で一休み 上・下巻」(電子書籍/POD 22世紀アート)。
資格は、日本外科学会指導医、日本消化器外科学会指導医、がん治療認定医、三重県警察医、ほか。
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