私達が苦しむのは、欲求が満たされないことによってである。自分が願ったことが叶わない、あるいは、思いもしなかった不幸に見舞われることも人生ではよくあることだ。かつてその原因は、神の御業によるとされていた。現代ではこれらの問題は「遺伝子」が生き残るため、あるいは、進化するために引き起こされることであると言ってもよい。欲求は人間全てに、つねに発生する。満たされない欲求に人は苦しむ。しかし、これらは動物を含め進化を促進する、自然選択の為せる業である。欲求が発生し、それを追求することによって生活を工夫し、よりよい暮らしが出来るようにするためだ。それは遺伝子による自然選択を通じての進化の過程と言ってもよい。しかし、欲求が強ければ、より満足できないために苦(ドゥッカ)を生じる。人類の進化の自然選択に寄与するために欲求があるとしても、個人個人は苦(ドゥッカ)をすべて引き受ける事は出来ない。欲求が多すぎる結果としての「渇愛」によって苦しむ必要はない。
自然選択が進化に及ぼしている事例は次のようなものだ。その場にいない蛇に99回連続で怯えるのは、その人の心の健康を損ないかねないが、100回怯えたことで祖先が毒蛇に噛まれず、無事に生き延び、おかげで最終的に私たちが生まれたかもしれない。暗闇での音に驚くのは、その多くが根拠のない不安であっても、狩猟採集時代から我々に備わった警戒心からだろう。時には、誰かから本当に襲われることがあるかも知れなかったのだ。また、他人が自分を嫌っているのではないかと思いこむ、あるいは、失敗したことを悔やんでうつ状態になるなど、私達はそれらを苦にして悩む。自然選択の考えから見ると、悩むことによって何らかの良い方法を見つける事ができるように遺伝子が促しているのかもしれない。
この様な自然選択が引き起こす人間の苦(ドゥッカ)に対して、認知行動療法の創始者と言われるアーロンベックも、「血筋が生き延びる代価は生涯にわたる不快かもしれない」と記している。ブッダに言わせれば、同様に自然選択が引き起こすのは生涯にわたるドゥッカ(苦)だろうが、その上でこの様に補足したかもしれない。「しかしドゥッカ(苦)は、心理的要因に真っ向から取り組めば避けられる。」
認知するシステムは、間違いや無駄が多すぎる。すべて、自然選択に有利に働くため(遺伝子を残すため)であるが、そうすると人間が幸せに生きるためには、間違いを少なくして、自分の内部あるいは外部の環境を正しく認識する必要があるだろう。遺伝子が支配する認知のシステムを排除し、実存的な生活を送るためには、現存の認知システムが作り出している「虚構の世界」を見直して、現実を再度認識することだ。
映画「マトリックス」で示されるように、自分が現実だと思っていた事は実は遺伝子が作り出している妄想かもしれない。しかし妄想の世界を現実だと思っている人に、そうではないと言っても信じない。ではどうすれば現実が妄想であると理解できるのだろうか。それが瞑想の目的でもある。妄想を解消して真実を見極めることは、「マトリックス」でいう「赤い薬を飲むこと」に相当する。現実世界が全て妄想であると言っても笑われるだけだが、他方、人間が自分で信じていることが正しいとは限らず、むしろ多くは間違っていることがわかっている。そうすると自分の世界はどこまでが現実でどこまでが妄想かは実際よくわからない。したがって一旦全てが妄想であると考え、確かなものだけを拾い出す必要がある。これはヒュームの懐疑主義、あるいは、現象学的還元法と似ている。
このような自己を疑うような態度はどのようなことに貢献するだろうか。個人の認識は多くの場合間違っているとすれば、自分が信じることを実行する場合でも、自信がなくなるだろう。それで良いのだ。そうすると自分の行為に対して本当に良かったかどうかを反省しなければならない。これは社会全体でも同じことである。常に反省することが大切なのである。
世界で生じるイノベーションにしても1回で起こる事はなく、常にジグザグのコースを取るはずだ。1人の人の思いだけでは反省に至らない場合が多く、失敗の繰り返しに陥る。しかし人間が多人数でそのことに取り組めば(これはチームとしてではなく、多くの競技者の意味であるが)他のものが失敗すればそのことを反省してその他のものはより良い方法を見つけるはずである(だからオールジャパンの取り組みの多くは失敗する)。この様な反省は、システム上に取り入れられる必要がある。日本の企業及び政府には、この反省を行うための過程が欠けている。
妄想を生み出すのは、自分自身の感覚からであるが、その感覚は、小説や映画からも生まれる。暗闇の映画館では、現実でない想像から恐怖や喜びが生まれる。映画の世界から抜け出し、スクリーンに映るものをただの現象であると捉えることは、映画のように自分の思考は現実とは離れて自分で作り出した妄想の一種であり、自分の前をただ通り過ぎていくものだとみなすことで無我の経験に近づくことができる。しかし、無我についてのブッダの考えはもっと実用的なものであり、自己が存在するかどうかに関係なく、自分が自己だと思うものを部分的に放棄することで、世界を見る目が明確になり、より良い人間、より幸せな人間になれる。ヒュームは人間の理性は「情念の奴隷」であるといった。感情は、理性を虜にして、判断をくだす際に、大きな役割を果たす。おそらく理性は究極の行動因子である感情に影響を及ぼすことでしか役割を果たせない。「理性だけでは意思のいかなる働きにとってもその動機になりえない」とヒュームは述べる。自然選択は人間以外のあらゆる動物に、感情を元にした選択肢を優先することによる生き残りを与えた。進化は感情にさらに情報を与えることだった。
この内容の多くは「Why Buddhism Is True: The Science and Philosophy of Meditation and Enlightenment」 Robert Wright (著)から引用しています。
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