僕には手足の筋肉が萎えてゆく先天性筋ジストロフィーの病気があります。
喉に穴を開ける気管切開をして人工呼吸器を着けてから35年。在宅療養は29年になります。
僕が今のような在宅療養を始めた時にはそれはそれは気持ちの良い状況ではなく、渋々のスタートでした。元々大学病院の小児科にかかっていて成人になったのを機に神経内科に転科したのですが、新しい環境と医師に馴染む間もなく、内科の病棟では小児科の頃のように入退院できるベッドの余裕がないため、病棟を追い出されるように在宅療養を勧められました。ところが90年代の大学病院には人工呼吸器を提供できるような予算や仕組みもなく、外車が買えるほどの金額の機械の実費での購入を求められました。病院にいられる期限も決められ、呼吸器を買わなければならない状況に追い込まれていった嫌な記憶しかありません。当時のことを思い出すと自分の病気や境遇が情けなくて、その怒りをぶつけるところもありませんでした。
現在は人工呼吸器を大学病院からレンタルできるようになり、消耗品の一部は在宅呼吸器療法の管理料の中から支給されるようになりました。在宅療養を支える診療所も増えて軽い風邪や腹痛など些細な変化にも往診して頂ける体制もできました。
70年代、筋ジストロフィー患者の寿命は20年前後で、成人式は迎えられないと言われていました。僕の体も加齢で病気の症状も緩やかに進んでいると思いますが、人工呼吸器の小型化、軽量化で在宅療養が普及して、これほど長く生きられるとは思いもしませんでした。ただ延命されて良いことばかりではありません。例えば僕は小学校に入って集団生活に放り出されてから、クラスメートと比べて体の違いや同じようにできないことが分かりました。それと前後して、子供心に薬や治療法がない筋ジスは二十才で死ぬと教えられていましたから、それ以上の将来を夢見るような子供ではありませんでした。中学生になり肌で病気の進行が見えると勉強もしなくなり、投げやりで時間を浪費する毎日になりました。高校は進学校の通信制で学びましたが、卒業後の希望もなく勉強を続ける意味や目的も見つけられず卒業しました。
ところが二十才の誕生日を過ぎても周りに言われていたようには死にませんでした。死ぬと思っていたのに死ななかったことは正直今でも複雑な気持ちです。二十才以降の将来設計をしてこなかった現実は、これからどうなるのだろうという不安と、これならちゃんと勉強しておけば良かったという後悔と絶望に苛まれました。
子供の頃に想像していた通りにはならなかった僕に、転科したばかりの神経内科の先生が「君は家に帰り在宅療養になったら何がしたいのか」と尋ねました。初対面に近く僕の何を知っているのかも分からない人に答える筋合いはないと粋がっていた一方、即答できる夢も希望も持っていませんでした。
中学生のとき、病気が胸にも進行して酸欠による呼吸不全で意識を失い、救急車で集中治療室(ICU)に運ばれました。幸い意識が戻ってからは、ベッドで既存の筋力の維持とこれ以上の関節の拘縮を防ぐため理学療法士(PT)のリハビリが始まりました。そんな時にS先生と出会いました。僕のように進行性の病気と重度の障害もある患者は療法士が喜ぶような目に見えた訓練の成果は望めません。リハビリの目的や目標の設定も難しい症例だと思います。その中でS先生は僕とのコミュニケーションの充実につとめて、レクリエーションを取り入れたメニューで体の回復と精神面での自立を支えてくれました。
二十才を超えて、これまでの後悔とこれからの不安に悶悶としていた時の僕を見守ってくれたのもS先生でした。そして、病棟の看護師長や主治医でもない医師たちのたわい無いコミュニケーションが僕を助けてくれました。勉強はいつ始めても遅くはないこと。絵を書くことは続けること。この二つは今でも僕のライフワークにいつも肝に銘じている言葉です。
在宅療養が始まり、まず通信制の大学の放送大学に進学して哲学や心理学と社会学を少しだけかじりました。同じ病気の患者や家族の活動にも参加してボランティアとの出会いもありました。そこで出会ったボランティアの勧めで、認定NPO法人の会報の表紙絵を連載して今では26年になります。
重度身体障害者でも、インターネットを使った遠隔授業で勉強する通信教育や職場に行かなくてもできる仕事、クリエイティブな才能を生かせることもあるでしょう。それには患者の病気や障害と、人柄や能力を観察できる理学療法士や作業療法士の支援とアドバイスが欠かせません。僕がS先生からリハビリテーションの中で上手く誘導して頂いたようなアドバイスを誰もが受けられたら、何か一つでも既存の能力を伸ばすことができるかもしれないのです。
先天性筋ジストロフィーで重度身体障害者の僕の在宅療養は、後期高齢者の両親との老障介護です。12時間の停電で人工呼吸器が止まった東日本大震災を経験して、隣近所と交流のない地域は陸の孤島と同じくライフラインを幾つも備えることが重要と分かりました。僕は大学病院の診察に加え診療所の往診や訪問看護、訪問歯科、訪問リハビリ、介護事業所の通院介助など地域の医療福祉サービスを受けています。それぞれの契約は市の社会福祉協議会の支援員を仲介していて、行政や保健師の助けもあります。しかし長い間、筋ジスの寿命は20年前後だったため、呼吸器を着け延命できるようになった今は壮齢の患者は自立支援策を試行錯誤で探しています。報道されている中高年の引きこもり、8050問題は他人事でなく僕も当事者です。法律に基づく公的サービスを受け医療者の訪問はある。けれども僕が何の理由もなく外に出たい逃げたい場合の咄嗟の手段はありません。日々老いる親を見て鏡に映るような不安と向き合っています。難病で全身が萎える症状より、日々老いる親を見ている現実ほど残酷なものはない。とてもしんどいです。
筋ジスの壮齢の自立支援はまだ始まったばかりです。呼吸器など医療機器の進歩で延命される者が益々増えれば、色々な患者がそれぞれの場所でより良い在宅療養の取り組みを始めることでしょう。
ここまではコロナ前の話です。先天性筋ジストロフィーで人工呼吸器を着けている在宅療養が、新型コロナウイルス感染症の感染拡大で国の緊急事態宣言が出されたのちの変化について、僕の場合に限って触れたいと思います。
月1回の大学病院の外来は通院を自粛。診療所の往診は隔週から月1回になりました。週1回の訪問看護と訪問リハビリテーションは続けています。生活リズムを守りながら感染の予防につとめ体力を維持しています。栃木県の緊急事態宣言が解除された今は大学病院にも通院しています。コロナの影響でインターネットを介したコミュニケーションを意味するICT化が進みました。栃木県医師会が運用している「どこでも連絡帳」を使い在宅医療が連携されています。大学病院で貰う処方箋は往診でも出せるようになり、薬は調剤薬局が宅配してくれるようになって後期高齢者の母が薬局へ薬を取りに行く負担もなくなりました。このような取り組みはコロナに特化した一時的な対応と断られていますが、在宅医療を受けている患者の負担が減る仕組みは今後も続けてほしいです。
話題をメディアに転じれば、障害者が自宅にいながら働けるリモートワークと、これまで関心を持たれていなかった分野への社会参加が注目されています。障害者が遠隔で操作するロボットが接客するカフェ。eスポーツの世界でも重度身体障害者の選手が企業とプロ契約を結ぶ例もあります。一方で知的障害や精神障害者が勤めている作業所は運営するパン屋、食堂など飲食業がソーシャルディスタンスの煽りで営業自粛、自宅待機が続き店を開けられず、母体となる事業所やNPO法人の存続も危ぶまれています。障害者を取り巻く環境も多様化しています。長い間、巣篭もりしている一人一人の実態を踏まえ彼らの可能性に寄り添う社会的な支援が求められています。
生きる意欲に欠けていた僕は、死に物狂いとか難病や障害と闘っているのとは程遠い時間を過ごしてきました。自分の思い通りにならないこと、こうだったら良いのにと望んでも、社会の仕組みや技術が追い付いていないことだって沢山あります。しかし、その現状を発信して世間に広く啓発することはインターネットの登場と普及で身近なものになりました。ブログや掲示板から始まりソーシャルネットワーキングサービス(SNS)に至るまで、今日はその表現方法も様々です。そこで僕が今置かれている状況や気持ちをメッセージで可視化することで悩みや問題の原因が明らかになれば、直接の解決策が見付からなくても間接的にでも病気や障害の課題を啓発していくことができると思います。時間はかかりますが、ボールは投げなければ決して返ってはきません。
僕にできることは細く長く続けること。三日坊主でも思い出したらそこからまた始めることです。それには時に弱い自分と向き合い、病気の進行があっても残されている能力や体力と相談しながら行動する柔軟性が必要です。僕も年齢を重ねて若い頃のようには無茶できなくなりましたが、好奇心だけは十代や二十代のそれを持ちたいと心掛けています。僕は風刺画を書くのと俳句も続けています。正岡子規は近代俳句の発展に尽くした俳人ですが、元々は新聞記者で日露戦争の下では自分の目で社会を見た記事や随筆を書いていました。人にとって充実感や達成感を得られるのはクリエイティブな作業が近道です。僕も彼の生涯にリスペクトして時代の空気を吸いながらクリエイティブな成果を残せる人生にしたいと思います。
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