教育の目的は、個人の自由な欲求を制限し、社会秩序に従うように教えることである、と理解している人が多い。つまり教育とは規律を教えることであるとの認識だ。校則や制服がその象徴である。また、教育は知識を教え込むことであるとの見解もある。そうすると、学ぶことは苦しいことになる。しかし、教育が上記の目的に使われることには疑問がある。規律は自由の制限を伴うが、本来自由は教育などによって制限すべきものではなく、それ自体が人間にとっての生きる目的となるものだ。問題は自由をどのように扱うかについてなのである。従って、教育は規律を教えこむ、あるいは知識を習得するのではなく、自由の取り扱い方を学ぶ機会と考えるべきである。
自由は個人の欲求を基礎としている。個人の欲求は基本的なものであり、全ての問題は、個人の欲求をもとに考えなければならない。宗教では欲求は制限されるべきものとの考えが多かったが、むしろ、欲求は制限するのでなく、欲求を自然のものとして、それをどう取り扱うかを考えるべきである。欲求が対象として向かう物理的事物(自分自身の身体を含む)並びに、他者との関係において、欲求がどう変化するのかが重要だ。
世の中のすべての事柄は、その基本を、個人の欲求に基づく意思に関わっている問題としなければならない。人間世界のルールは、その原点が「私はかくありたい」という個人の自然な欲求に基づく意思に基づいて、「善」の本質が形作られるものである。個人の欲求には、情動的なもの(食欲、性欲など)、環境や自然物(自分の身体も含む)からもたらされる反省的なもの(水の中では呼吸ができない、走ると息が切れるなど)、他者への配慮(自分が物を独占してはいけない、仲良くしたほうが良い)、そして、他者からの承認(ほめられること、仲間に入ること)など多彩なものがある。ここで、情動的なもの(食欲、性欲など)だけを取り上げ、欲求はわがままなものであるとみなしてはいけない。個人の周りには常に環境があり他者が存在する。従って、個人の欲求は自然に湧き上がる自身の欲求だけであるとは限らない。むしろどちらかといえば、近代社会では個人の自然の欲求は抑圧され、周囲に存在する他者からの圧迫が個人に大きな影響を及ぼし、反省や配慮となり、個人の欲求の大きな部分を占めている場合が多いのではないだろうか。最近の日本では、特にこの傾向が強い。その結果、自分の素直な欲求が分からなくなっている場合もある。利他的な行いも、また基本的には自分の欲求の一つであると考えれば良い。従って、自然の個人の欲求はその原点を突き止めることが難しい。
個人の欲求は、それ自体が、純粋に湧き上がるものだけとは言えないし、湧き上がると思っても、すでにそれは、他からの影響による可能性が大きい。意思が発動される前に、情動や他者からの影響によって行動する素地がすでに出来上がっているとすれば、自由意志とは、はなはだ貧弱なものとなる。自由と言ってもそれは、他からの強制によって自由の衣を纏っただけのものかもしれない。よって自由の取り扱い方は難しいのである。
現代では、純粋に自分の情動に基づく自然な欲求を理解する、つまり自分自身で自然の欲求を理解することは、もはや困難かもしれない。この点が世の中を歪めている。つまり、それは自分の欲求か、あるいは、一般的社会の習慣や常識かが、分からなくなっている可能性がある。
もし個人の純粋な情動に基づく欲求が出揃えば、一時的には混乱が起こるかもしれないが、真剣な議論によって世論形成はもっとより分かりやすく良くなるだろう。実際問題としては、個別の欲求は、それが出現するとともに、自己の身体を含む自然環境と、そして、即時に他者にぶつかる。 純粋な過程をたどれば、 個人の情動に基づく欲求が、それと同様に他者の情動に基づく要求と関係を持ち、弁証論的な変化(※1)をきたすことが必然である。
自分の幸せを希望して生きる個人の欲望は、より普遍的なもの(社会一般の道徳や決まり)へと向かう本性を持っている。 この働きは、客観的な「善」としての「法・権利」と、自主性を持つ主体的な「善」としての「良心」として示される。 「良心」は良きことへめがける個々人の主体的な自由として成立する。
「良心」は一切の外的な権威、つまり既成の宗教的、習俗的、学問的権威に頼ることなく事柄の善悪について、ただ自分自身の内的な判断だけに身を置こうとする態度であり、近代人の道徳の特質と言える(言うまでもないが近代以前では善悪の基準は宗教・教会が唯一のものとして考えられていた)。 近代社会では個々人の考える価値の自由も解放されるため、善悪の絶対的基準は揺らぎ当然多様なものとなる。しかし自己の主観的な「善」の核心に固執することを越えて、どこまでも普遍的な「善」をめがけようとする意志を、我々は真の意味での「良心」と呼んで良い。逆に言えば 「良心」は自らの「善」が普遍的であることの根拠をあらかじめ持っているわけではない弱点もある。
近代国家の根本的な存在理由が人々の福祉あるいは幸福にあること、つまり普遍的な福祉(人々の幸福)が近代国家の法や権利の目標であることは当然だ。したがって個々人の幸せの追求が、他者のそれと調和するような考え方が要請される。近代社会では各人が自分の欲望、ロマン性、自己理想、を自らの内に育て、それを自由に追求することがお互いに承認されているし(自由の相互承認)、各人は自分の欲求欲望を自由に追求できる権利があるのだ。
(※1)ある意見と、それと対立する意見があった場合、議論によってそれらを本質的に統合した別の意見が生み出されること。この過程を繰り返すことによって、より良い考えが形成されること。
この文章は、ヘーゲル「法の哲学」(岩波文庫)及び、それを解説した、竹田青嗣・西研「はじめてのヘーゲル『法の哲学』」を参考・抜粋したものです。
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