逆算の人生論-死を終点として今を生きる

「仏様の顔になってこられたな。」
朝の回診で部屋を訪れると、その男性は穏やかな表情でじっと目を閉じ、浅い呼吸を繰り返しておられたのでした。


この方との出会いは、20数年前に遡ります。当時70歳の彼は、温和な好々爺といった面持ちではありましたが、足腰の弱りが目立ち、通院の折には近くに住んでいる弟さんに付き添ってもらって通院されていました。「娘がいますが、少し離れているので、これの世話になっています」と弟さんを紹介して下さった時の笑顔は、今でも鮮明に私の脳裏に浮かんできます。


当初は胃の不調を訴えておられ、内視鏡検査を行い、内服薬での治療を続けていました。幸い、処方が合ったのか良好に経過し、当院を気に入って頂けたようで、きちんと通院を続けて下さっていたのでした。

胃の調子も改善し、通院10年目になった頃になって、便通の異常を訴えられました。「もう歳ですから」と言う彼を説得して行った検査の結果、S状結腸癌が認められ、すでに80歳を迎えようとしているところではありましたが、自活できていることや腸閉塞のリスクを考慮して手術を行うことにしたのです。高齢者にありがちな、術後の足腰の弱りはあったものの、術後経過は良好で、発見も早かったことから術後の抗癌剤治療も必要なく、お互いに胸をなで下ろしたものです。

この頃には、すでに親子とは言わないまでも、互いに信頼関係ができていると思える間柄となり、心優しい弟さんの存在もあって、穏やかな時間が過ぎてゆきました。

それから、また10年が過ぎ、定期検査として行った採血検査で、肝機能異常が認められたのでした。腫瘍マーカーでは、S状結腸癌の時に少しだけ上昇していた腫瘍マーカー(癌が産生する物質で癌の存在の目安になります)のCEAは正常のままで、これまで動きがなかったCA19-9という別のマーカーが少し上昇していました。「再発か?」と思いつつも、採血からは別の病気も疑われ、腹部CT検査を行った結果、CT検査で映し出された膵臓に予期せぬ腫瘤を認めることになりました。さらに造影CT検査なども行い、最終的に異時性多発癌(時間が経って、別の癌ができること)としての膵臓癌と診断されたのでした。

さすがに、今回は90歳になっておられ、幸いにも痛みがないことから、できるだけ在宅ケアを行って、最終的には入院での看取りを行うことになりました。勿論、娘さんや弟さんだけではなくご本人にも全てをお話ししましたが、「良くここまで生きてこられました。先生のお陰です。あとは、残りの時間をゆっくり過ごします」と、淡々と受け入れられたのでした。

「外科の先生に申し上げるのは憚られますが、もう、ここまできたら手術はご勘弁してください」という言葉には、思わず、「そうですね。ご希望通りにさせて頂きます」と答えていました。「痛いのだけは勘弁願いますよ」と、悪戯を見つかった子供のような照れ笑いとともに言い添えられた時には、その覚悟のほどに、「はい。しっかり痛みは取るようしましょうね」と言う以外に言葉はありませんでした。

科学的根拠があるのか定かではありませんが、「高齢者の癌はゆっくり進む」と言われています。まさに、この方がその証であるかのように、時間はゆるゆると進み、採血で腫瘍マーカーは増加してくるものの痛みもなく、外来での診療が年単位で続きました。

そして、膵臓癌の診断から2年と少々の時が過ぎた頃になって、次の予約日を待たずに来院されたのでした。

「あれっ」と思うと同時に、「いよいよか」と思うことになりましたが、診察室に車椅子で入って来た彼の顔は黄色く変色し、身体がひとまわり小さくなったような印象を受けました。そして、開口一番、「先生、入院させてください」と、絞り出すように言われたのでした。

付き添う弟さんの顔がそばにあるだけ、その黄色さが目立っており、私は『いよいよ、その時が来たか』と覚悟を決めることになりました。入院後の彼は、自ら断食をして入定するという修行僧のような様相となり、部屋を訪れるたびに、「先生、お世話になりました。痛みもなく、有難いことです」と繰り返していました。

そして、逝かれる数日前から、まさに「仏様」の顔になられたのでした。

この方の看取りを通して、これまでここに繰り返し書いてきたことや考えてきたことが、具体的な実例として示され、一つのまとまった考えに集約されてきた気がしています。

それが、「逆算の人生論」です。

人は必ず死にます。人種や性別、生まれた場所や貧富の差に関わらず、独りで生まれてきて(たとえ双子や三つ子でも、人としては独りです)、その長さに差はあろうとも、再び独りで死んでゆかねばなりません。

古来、哲学や宗教は、そうした人生の摂理、ある意味で不条理と思われることへの答えを求め、また未知なる死への恐れを癒すために生まれてきたものと思われますが、実際、人が不死であったなら、哲学も宗教も必要なく、生まれても来なかったのではないでしょうか。

日本では、江戸時代に書かれた「葉隠」に「武士道と云うは死ぬ事と見つけたり」とあるのが有名ですが、表面的な「すぐ腹を切りたがる」という意味ではなく、その真意もまた、「人はいつか死ぬのであって、それまでを潔く、真摯に生きよ」ということと解されます。これは、武士が武士道という生死をかけた場に身を置くことで、士農工商のトップの座に位置し、現在の我々が想像できないレベルで死が身近にあったために、自ずから到達した境地ではないかと思います(もっとも、武士道も後には堕落していきますが)。

ブラックホールのような死という終焉に向かって、いかに自分の信じる生命を生き抜くかという一点に人生を掛けていたのでしょうし、身近な人の死を日常的に目にしていたからこそ、そこへ向けての逆算した今を生きようとしたのではなかったか。今の私にはそう思えてなりません。

医者は、薬や手術で治すとは言っても、せいぜいその人が持って生まれた寿命に近づけるだけの事で、どうしたって人は死ぬのです。「医者は皆やぶ医者だ。何故なら患者はいずれ皆死んでゆく」と、医者を揶揄する言葉もあるくらいです(いや、真実を言い当てていますね)。

ただ、どんなやぶ医者でもやる気さえあれば、残された生を懸命に生きることのお手伝いはできるのではないかと考え、その時までの「今」に意味を見出しているのが医療の本質ではないかと思えてきていますし、今の私が目指す医療です。

人が生まれ成長し、己にも「死」が等しくあることを知った時、その時点からでも「逆算の人生」を考えて生きさえすれば、きっと充実した人生を送ることができるのではないかと思っています。

今、このOpinionsに出会ったあなた、早速「逆算」してみてはどうでしょうか。


H.N.さん、享年93歳。
お見事な人生でした。あなたとの出会いから多くの事を学ばせて頂きました。有難うございました。
また、いつの日かあなたの笑顔にお会いしたいものです。

医療法人 寺田病院 院長板野 聡
1979年大阪医科大学を卒業後、同年4月に岡山大学第一外科に入局。
専門は、消化器外科、消化器内視鏡。地域に根差した医療を目指しています。
現在の寺田病院には、1987年から勤務し、2007年から現職。
著書に、「星になった少女」(文芸社)、「伊達の警察医日記」(文芸社)、「貴方の最期、看取ります 死なせ屋ゴンの終末期医療日誌」(電子書籍/POD 22世紀アート)。
資格は、日本外科学会指導医、日本消化器外科学会指導医、日本消化器内視鏡学会指導医、がん治療認定医、三重県警察医、ほか。
1979年大阪医科大学を卒業後、同年4月に岡山大学第一外科に入局。
専門は、消化器外科、消化器内視鏡。地域に根差した医療を目指しています。
現在の寺田病院には、1987年から勤務し、2007年から現職。
著書に、「星になった少女」(文芸社)、「伊達の警察医日記」(文芸社)、「貴方の最期、看取ります 死なせ屋ゴンの終末期医療日誌」(電子書籍/POD 22世紀アート)。
資格は、日本外科学会指導医、日本消化器外科学会指導医、日本消化器内視鏡学会指導医、がん治療認定医、三重県警察医、ほか。
  • 社会福祉法人敬友会 理事長、医学博士 橋本 俊明の記事一覧
  • ゲストライターの記事一覧
  • インタビューの記事一覧

Recently Popular最近よく読まれている記事

もっと記事を見る

Writer ライター