パンドラの匣を開けたら検査値がでてきた

ウエアラブルバイオセンサーの驚異的な進歩

最近スマートウオッチというキーワードでネットを調べてみて驚いた。1年前には存在していなかった様々な機能がついたウエアラブルデバイスが、数千円でネット上にあふれていた。血圧、脈拍、体温、心電図、歩数をはじめ摂取カロリー、ストレス、酸素飽和度まで測定できるようになっている。また、血糖測定はデバイスを装着しリーダーで読みとる装置が数千円で手に入る。従来であれば数万円はしたであろう機能がわずか1年の間に数千円で手に入るようになった。かつてコンピューターが数千万円のものが数百万、数十万、数万になったのと同じか、それよりももっと速いスピードで機能も価格も変化している。今のところ測定した数値はコンピューターに自動的に転送するようにはなっていないが、設定した記憶媒体に自動的にデータが転送されるようになるのは時間の問題である。近い将来には個人に応じたバイオセンサーが開発されるであろう。糖尿病の患者用には食前食後、設定した時間に定期的に血糖を測定しデータを転送、必要があればインスリンの投与を促す様になる。甲状腺機能障害患者用の甲状腺ホルモン測定、白血球測定、脂質測定、がん患者の腫瘍マーカー測定などのバイオセンサーをカスタムメイドで組み合わすことができる時代がくる。毎日が人間ドック状態である。

バイオセンサーの発展は今後も続く。その時に私たちと私たちをとりまく医療はどのような形になるのであろうか?

検査値は個人に帰属するようになる

特権的な知識は専門職の存在価値に結びつく。秘儀の知識が宗教を神秘的に畏れ多いものとしたように。しかしパンドラの匣を開け、ひとたびその知識が公知となると、専門職の存在意義は失われる。かつて医学知識の難解さと膨大な量は医師の存在意義を確かなものとしていた。検査のオーダーは医師が行うものであり、その結果についても医師が最初に知り、医師の裁量によって検査を受けた当人が知らされることになる。知らされないこともあるのはご存知の通りである。自分のものであっても自分のものでなかったのが検査値。検査結果は医療者のものであった。

例えば血圧を例にとってみよう。30年ほど前までは血圧は医師が水銀血圧計で計るものであった。血圧測定は医師の専任から看護師の役割に変わり、その後は電動血圧計の登場とともに誰でも測定できるようになった。そうすると血圧は自分のものとして意識されるようになった。いつでも血圧が測定できるようになると、様々なことが明らかとなる。例えば朝の血圧と日中の血圧の違い、寝る前の血圧と就寝中の血圧が本人にわかるようになった。歩いている時、走っている時、風呂に入る前と後、お酒を飲んだ後、好きな人と会ったときなど日常の生活と血圧の関係がわかるようになった。こんなことはかかりつけの医者も知らないことである。病院に行った時の血圧と家庭での血圧の違いなども一目了然である。血圧の管理は医師よりも本人の方が熟知している時代となった。

バイオセンサーで初めてもたらされる行動変容

血糖についても同じことが言える。血糖は医療機関で採血により初めてわかるハードルの高い検査であった。血糖の日内変動を知ること、すなわち起床時から始まり食事前後での血糖を測定することは薬剤、特にインスリン投与において重要な情報を与える必須の検査である。しかし頻回の採血は苦痛を伴う。これが新たなバイオセンサーの登場で一変した。いつであろうと望む時に血糖が簡単に測定できる。もちろん血中の血糖値と完全に一致することはないかもしれないが、血糖の高低についての情報としては充分である。何より食事をはじめとする生活習慣と血糖の関連を自分で理解することができる。

食は生きる楽しみである。その食を制限するのが糖尿病の治療の根本である。1日1400キロカロリーにしなさい、ご飯は茶碗1杯が2単位ですよ、と指導される。量さえ管理すれば何を食べてもいいと言われるものの、食べたいものはついつい食べ過ぎてしまう。食べものの制限をされることはQOLを下げること甚だしい。特に高齢者施設においては、ステーキが食べたい、うなぎが食べたいと言っても糖尿病があるからと食べさせてもらえない方も多いと察する。しかし、血糖がむやみに上がらなければステーキだって食べても良いし、お酒だって可能である。医師のあいだでは、お酒は糖尿病のコントロールの最大の敵であると教えられている。私自身の経験では、ウエアラブルセンサーで頻回の測定をしてみると、ワインや焼酎はそれほど血糖の上昇はないことがわかった。一方で、うどんや蕎麦湯は血糖をこれでもかと急上昇させる。香川県に糖尿病が多いのもむべなるかなと合点がいった。食事とその結果の血糖を知ることは、病気を悪くしたくない患者の大きな行動変容をもたらす。わたしのQOLは、好きなうどんは諦めてもワインを嗜むことができるため、以前に比べ極めて向上した。運動も心がけるようになった。

日本では生活習慣の変化により2型糖尿病の患者数が等比級数的に増加しており、人口の高齢化により今後もさらなる増加が予想される。長期のコントロールの必要な糖尿病においては一生にわたって実行可能な食餌療法がきわめて重要である。ウエアラブルデバイスはそれを自己コントロールという形で実現することができる。

バイオセンサーは医療を変える

バイオセンサーは患者の行動変容を起こすだけでなく、医師との関係も変える。医師は検査結果に基づいて処方し治療する。しかしバイオセンサーの時代においては患者の方が豊富な検査結果を持っている。患者自身が処方の有効性、副反応の有無、生活指導の妥当性の情報を多く持つならば、医師と患者の関係は変化せざるをえない。さらにインターネットでのAI診断や豊富な医療情報は患者の疾病に対する理解を格段に深化させる。未病の時からのバイオセンサーの装着により行動変容をもたらし、疾病の予防が可能となるかもしれない。糖尿病患者の行動変容は、糖尿病に起因する腎不全を減少させ医療費の削減につながることが期待できる。

こうなると医師は従来のように単に処方をして治療する人ではなく、一緒に治療の経過を歩む人となることが求められる。疾病の説明、結果の解釈、処方などについて患者と充分なコミュニケーションをとることが求められてくる。それができない医師はユヴァル・ノア・ハラリの言うところの「無用者階級」となるであろう。

岡山大学大学院ヘルスシステム統合科学研究科教授松岡 順治
岡山大学大学院医学研究科卒業 米国留学を経て消化器外科、乳腺内分泌外科を専攻。2009年岡山大学大学院医歯薬学総合研究科、緩和医療学講座教授、第17回日本緩和医療学会学術大会長。現在岡山大学病院緩和支持医療科診療科長、岡山大学大学院保健学研究科教授 緩和医療、高齢者医療、介護、がん治療の分野で研究、臨床、教育を行っている。緩和医療を岡山県に広める野の花プロジェクトを主宰している。
岡山大学大学院医学研究科卒業 米国留学を経て消化器外科、乳腺内分泌外科を専攻。2009年岡山大学大学院医歯薬学総合研究科、緩和医療学講座教授、第17回日本緩和医療学会学術大会長。現在岡山大学病院緩和支持医療科診療科長、岡山大学大学院保健学研究科教授 緩和医療、高齢者医療、介護、がん治療の分野で研究、臨床、教育を行っている。緩和医療を岡山県に広める野の花プロジェクトを主宰している。
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