倫理観から発生する「正義」の概念は、時として暴力的な力を持ち、「正義」を掲げた行動は、世俗的な慣習を打ち倒す力を持つ。民衆側からの力は、革命となり、権力者側からの力は圧政となる。「正義」を持ち出す場合は、持ち出した側の動機を考えなければならない。「正義」を持ち出す事自体を疑う必要もあるのだ。「正義」が時代によってどの様に扱われてきたかを知ることは、現代の「正義」を一旦は懐疑的に見るために必要なことである。一般に、「正義」とは自由と平等を満足するように思われているが、歴史上は必ずしもそうではない。
古代の社会は、人種、地域、あるいは地位において、人々の間にある不平等は当然であると思われていた。例えば、民主主義を最初に取り入れたと言われるギリシャでも、ギリシャ人と、その他の人たちの間には、人種的な差があり、受ける待遇においても差別は当然であると考えられていた。さらには、ギリシャ人の間でも、地位や仕事によって、差別があることも普通だった。地位の低い人が、地位の高い人に危害を加えた場合と、その反対の場合とでは、受ける処罰にも差があったのだ。ギリシャの民主主義と現代のそれとでは、大きな違いがある。ギリシャの「正義」は、現代のそれではない。
時代は下り、人間の間での差別を否定したのは、トマス・ホッブスである。彼は、すべての人間は市民的な集団の中で、各人が自由であり、それらは犯すことが出来ない権利である、従って、自由のもとでは、人々は平等に扱われなければならないと考えた。これはさらに発展して、平等の範囲は広まっていった。「正義」は万民に等しく与えられるべきなのだ。
この延長線上に、功利主義の考えが起こる。功利主義は、各人が自由の下であれば、その能力に応じて、富の分配を受ける権利があり、社会全体としては、ルールを定めて、その範囲で自由を確保する。私的財産を保障することが、国家の役割で、その国家は市民が作るものである。そして、「正義」は、「各個人の幸福を最大限に高めることが目的」となるのである。幸福を高めることが社会正義であり、それが功利主義の目的なのである。この考え方は、現代でも大いに通用するかもしれない。
カントはこれに対して、理性が示す道徳法則に従って行動することを求め(定言命法)、「正義」を「君の意志の格律(ルール)が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように(通用するように)行為せよ」と述べている。因果論的論理(原因と結果の法則)でなく、理念に基づいた行動こそが「正義」であり、それに沿った行動を促しているのだ。幸福を求める善の追求でなく、絶対的正義のもとに行動することを求めているのである。幸福になることが「正義」とは言えないのだ。ただし、各人の自由は最大限尊重されるべきであることは当然だ。
近代では、宗教以外の分野において、功利主義的な考えが、行動の一般的な原理になっていった。それに同調するかのように、宗教も功利的な色彩のほうが強くなっている。例えば、寄付やお願いをしたのだから、望みをかなえてほしいと願うことは、ほぼ功利的な行動であるが、宗教では普通のこととして取り扱われる。功利主義は、いまや非宗教的にも、宗教的にも、日本全体に蔓延して、あたかもそれが、「正義」であるかのような印象を受ける。功利主義は合理性と同じように、良いものとして扱われている。多くの人に良いものは、社会にとっても良いものであり、何かを考える場合、そうすると得になるから、あるいは、社会に有益だからとの原理を持ち出す場合が多いのである。この場合、社会に加わることが難しい人たち、あるいは社会に加わってはいるが、底辺で暮らしている人たちが功利主義的な恩恵を受けているかどうかは、はなはだ疑問である。最大多数の人は、必ずしもすべての人を意味するわけではない。
功利主義に対して、ジョン・ロールズは、自由の平等原理、つまり、自由を追求することに格差が生じないようにすることを目指して、功利主義とは異なり、「格差原理」を提唱している。「格差原理」によると、自由のもとで「正義」は、「最も不遇な成員たちの最大利益に貢献する必要がある」のだ。この場合、功利主義と異なり、社会が貢献する対象を最大多数の人ではなく、最も不遇な人としているのだ。
現代社会は、自由と平等に基軸を置くようになり、「正義」が実現しやすいと考えられる。しかし、現代でも、自分の後ろには「正義」があり、対立する側には「正義」がないと考え、一方的に主張を通しがちだ。社会正義は、時代によって、理論によって、立つべき根拠が大きく異なるのだ。現在の社会正義が果たしてどの様な結果をもたらすのか、一般に流布している「正義」を無批判に受け入れることは危険であると認識すべきだろう。グローバリゼーションあるいはその反対のナショナリズム、経済成長あるいは環境主義、公益のためか個人の権利か、いずれも無批判にどちらが正義であるとは言えない。無批判に一方に肩入れすることが、偏ったイデオロギーを生み出すのだ。その点、メディアで演じられる討論で即時に反応を求められる傾向は、相手の意見を打ち負かし、自分の側の「正義」を貫くことを強いている。単なる議論術でなく、真の健全な議論が必要である。
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