世界中で盛んなマインドフルネスの原点は瞑想(めいそう)にある。最近では、アメリカのIT経営者などにも幅広く愛好されているようだ。仏教的瞑想の原点は、ブッダの考えた、無常、苦、無我の考えに基づく。この様な考えを現代に生かしていくには、どのような点が必要となるだろうか? それは、ブッダも述べているように、ブッダの考えに忠実になるのではなく、基本的な考えを自分自身で発展させ、自分に合ったやりかたで、行動を実践すべきだろう。
ブッダの提唱した考え方をそのまま採用するのも悪くはないが、ブッダ自身も自分が唱えた方法は、各個人が自分の考えを発展させる一つの手段、あるいは、方法として捉えるべきであると述べている。瞑想の根拠となる考えは、煩悩を捨て、欲を廃し、厭世(えんせい)的になることではない。そうではなくて、自分の考えが何処から発し、何によって強化されているかを理解することにある。僧侶であり哲学者のバンテ・H・グナラタナは、その著書「マインドフルネス」の中で、瞑想について分かりやすく、興味深い内容を記している。以下の記述は、「マインドフルネス」からの引用や考えを基にして述べたものである。
人々が外界から刺激を受けること、自分が思い付くこと、すべてについてその接点は、刺激と接触する感覚に始まる。外からの刺激や自分の思い付きなどの感覚が、自分の中で予(あらかじ)め蓄えられている概念と結合し、思いや感情を生む。好き・嫌い、気持ちが良い・悪い、同情する・しない、正しい・間違いなどの判断は、外界からの刺激あるいは自分が思い付くことに触発され、自分の中で予(あらかじ)め蓄えられている概念に基づき脳が速やかに行う。このような経路は、自動的に発動される。
例えば、相手の発した言葉で傷つく場合を想定してみよう。相手の言葉で、自分が嫌な気分に浸っている時に、その感情の出どころを探らなければならないのだ。何故なら、その嫌な感情は、既に加工された自分自身の思い込みに過ぎない可能性が高いからである。思い込みから抜け出して、自分自身が物事を客観的に見つめようとする時に、外界からの刺激(相手の言葉)を、自分の中で予(あらかじ)め蓄えられている概念(自分が相手に対して抱いている思い)と瞬時に結合する状態から切り離し、それぞれを個別に感じる素直さが大切だ。外界からの刺激について敏感になることが必要で、同時に、自分の気持ち(自分の中で予め蓄えられている概念と刺激との反応)を観察するのも大切だ。
注;筆者作成
意識には志向性がある。志向性とは、同時に2つの事柄を思う事ができないことを指している。。瞑想を行うと、意識を一つに集中しようとする思いに反して、外界からの刺激、内部から湧き上がる思いが、心を絶え間なく占拠することに気づく。それは数秒ごとにあるいはミリ秒ごとに変化している。ほとんどは無意識に自分の心を通り過ぎ、あるものだけが、心を占拠する。気付きは外界からの刺激に対して、自分の貪(むさぼ)りや欲望が自分では自然に、当然の現象として沸き起こっていることを発見する。自分が欲しいと思っている気持ちに対して、何故そのように思うのかを明らかにしてくれる。刺激を思考(自分の中で予め蓄えられている概念と刺激との反応)とは切り離し、思いの固定観念に入れることをやめて、その都度刺激のみを直接に感じるようにする。
私たちは私と呼ばれる実態を探している。しかし見付かるものといえば、身体という骨と皮で出来ている袋と、その袋を私とみなす認識である。そして心と身体のつまらない現象を私のものとして所有し、守り、防御していることを見る。これがいかに愚かであるのかも見るのだ。
私たちは自分の身体、感覚、感情、思考の中に、固定した私と言うものを必死に探している。休みなく探し、隅から隅まで覗き込み、引っ掻き回し、際限なく探しているのだ。でもどこにも私というものが見付からない。見付かるものは所々の現象から引き起こされ、条件づけられた、おびただしい変化の流れのみである。そこに実態は見付からない。流れだけなのである。思考は見付かるが、思考をする人は見付からない。家(身体)の中は空っぽなのである。そこには誰もいないのだ。
この時点で私に対する見方はすっかり変わっている。自分の姿をあたかも拡大鏡を使って新聞の写真を見るかのように見るのである。普通、肉眼で新聞の写真を見る時には、写っているものをそのまま見るしか出来ないが、拡大鏡を使ってみると、その写真がたくさんの細かいドットで構成されているのが分かるだろう。これと同様に、鋭い気付きを持って自分自身を凝視する時、私と言う感覚はその個体性を失い、分解して無くなる。そして知恵の瞑想の核である、存在の3つの特徴の無常、苦、無我が、ありありと心と身体の集合体である家(身体)に現れるのだ。この時鮮明に、生は無常であること、存在の本質は苦であること、私と言う実態はない、と言う心理を体験する。力や執着、怒りなどは虚しくて、全く無益なものであることに、はっと目覚めるのだ。
意識は変革する。肯定的な私と言う概念が消えてしまうのである。残っているものといえば相互に関係仕合う実体のない無数の現象のみである。それらは条件によって成り立ち、変化し続けているものだ。
一つ一つの要素が織り成す、複雑なネットワークを「自己」と呼んでいる。要素に分解すると、機能的な部分のみが抽出できる。こられの成り立ちを観察すること。そして「自己」は様々な要素から成り立っている理屈が分かれば、「自己」という総体的概念は消失する。やがて「自己」を探す作業は無意味であることに気付く。それぞれの要素は流れる集合体のようなものであり、それぞれの要素は、他の要素が織りなす、因果関係によって引き起こされたものだ!と気付くだろう。
自然は灰色で無味乾燥なものであるが、自分が素晴らしい景色(色彩や形、あるいは評判や歴史など)を付け加えて、自分自身で感動する。紅葉の奇麗な赤色も太陽の光が一部で反射して、人間が目にする紅になる。さらには、その紅色を奇麗な色、あるいは感動する心は、自分自身の問題である。
マインドフルネスの考えは、煩悩を捨て、欲を廃し、厭世的になるのではなく、自分の考えが、何処から発し、何によって強化されているかを見ることにある。ただし、西洋哲学による、完全に論理的思考からのみでは、これらを導けないのだ。それにはある意味での神秘的な、瞑想の過程を必要とする。従って、この様な過程が明晰になると、自分の思い込んだ欲望や願いが、意味の無いものとして感じられる。本当に必要なものが浮かび上がってくるかもしれない。例えば、自然の素晴らしさにしても、それが自分の思い込みであるとすれば、素晴らしい自然を見る必要はなく、その欲求も収まるだろう。その反対に、確かに自分で必要なこと、例えば、政府に反対するための行動を起こすのが、思い込みや、他人からの受け売りでなく、本当に自分自身で考えた必要なことであるとすれば、それを直ちに実行すべきだろう。また、自分の可愛らしいささやかな欲は、是認する余裕も生まれる。
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