無意識に自由を自分自身で制限してしまう「自己の家畜化」。人はなぜ「自己の家畜化」に陥ってしまうのか。

(自分の姿が鏡に)「醜く映ったからといって鏡を責めても仕様がない」という言葉がある(ニコライ・ゴーゴリの著書『検察官』より)。それが本当であっても人間は、見たくないもの、都合の悪いことをあえて見ようとしない性質を持っている。

 

「自己家畜化」もその一つだ。「自己家畜化」とは、本来自由に行動できる自分に対して、「無意識」に自由を自分自身で制限することを指している。本来備わっている自由を何故制限するのか? その理由は、生理的欲求や安全を求め自由を差し出すことにある。それも人々が「無意識」に。

生理的欲求の満足や安全のために自由を制限することは、それが意識的であれば、ごく普通のことだ。誰でも、飢餓や貧困は嫌だし、危険な道を歩くことは控えるし、危険な植物を食べることもない。ただ、現代人の生活は、無意識に自由を差し出すこと、自己規制化、つまり、「自己家畜化」に満ちている。家畜は自分の境遇に満足して、自由を求める行動をとらない。


同様に人間社会での「自己家畜化」傾向は教育によって作られる。幼少期に、社会の要請に応じた教育、あるいは、企業に都合の良い教育を受けると、意識的に自由と安全とを区別しないで、その世界が当然であると認識し、「無意識」に自己規制を行うようになる。個人の自由を尊重する教育がなされていない時に、「自己家畜化」が起こるのだ。

 

狩猟採集時代においては、人間は自然(人間以外の生物も含む)の一部としてその片隅に生活していた。
ライオンが自然に対して占める位置や、アリ(蟻)が占める位置と同じだったのだ。自然に対して働きかけを行い、許される範囲で食料や衣服を調達し、ねぐらを探して確保していた。その関係が変わったのは、今から12,000年ほど前の人類が定住し始めたころだ。


人類が定住し始めたのは、農耕生活が始まったからである。農耕生活とは、植物の栽培と、その後に起こった動物の家畜化の結果である。両者共に自然の生物を、人間の都合の良いように人間が操作を加えた結果である。人間は初めて自然とは異なる環境を手に入れたのだ。その結果、生産性は飛躍的に上昇し、人口の増加を引き起こした(その結果現在の80億人が暮らす地球になっている)。

 

植物の栽培は、イネ、ムギなどの穀物が主流体であったが、その他の食用植物も自家栽培を行った。これらは、自然に生えているものを品種改良し、収穫量を増やし、早期に実をつけるように改良したものだ。

 

同時に、人間は、動物を飼育し始めた。オオカミ、ヤギ、ヒツジ、ウマ、ウシなどを飼育し、家畜化した。植物と動物とは同じように自然の状態から、人間に役立つように改良したものだが、家畜として目立つのは動物の方である。

動物を家畜化することは、人間が自分たちに都合の良いように自然を変えることである。だからと言って、家畜化が悪いわけではない。人間は野生動物を自分たちの生活に取り込み、動物が生み出す生産物や、個体そのものを食べることも含め、人の管理下に哺乳類や鳥類を置くようになったのだ。家畜は、人間が人間の都合の良いように、それまで自然の中で生活していた動物を飼育し、品種改良を加えている。家畜の側から見ると、自然界で生活していた時の自由を放棄する代わりに、安全を手に入れたと言える。当然ながら、この様な選択を動物自身が行ったのではない。

 

これに対して、「自己家畜化」は、人間が他から強要されることなしに、自分自身で家畜化に向かうことを指している。

 

家畜には以下のような特徴がある。

まず、第一に生きるための食料やねぐらを自分で調達するのでなく、飼い主から提供されることだ。その結果、生理的欲求(特に食物)の大部分が解消される。

また、第二に安全も保証される。草食の哺乳類の多くは、常に肉食獣の餌食になる危険があるが、家畜では飼育主が最大限の努力を払って、その危険から守ってくれる。

第三に、自然の災害、例えば低温、熱波(ねっぱ)、洪水などからも守られる。このような飼育主との関係は、強制された部分はあるが、相互に利益を生んでいる。つまり、家畜化は安全のために、自由を手放した状態であると言える。

 

狩猟採集時代では、人類の「自己家畜化」現象は余り見られない。

 

農耕社会に移行して、家畜を飼育すると同時に、「自己家畜化」も始まった。人間社会は集団で暮らすにつれて、色々な規則が必要となる。規則は民主的に作られる場合もあるが、為政者が勝手に自分の都合で作る場合もある。特に宗教的な規則は、虐げられた人たちに対して心理的癒(いや)しを提供する代わりに(あるいは心理的癒しそのものが)、禁止条項を作っている。当初はそれらの禁止条項は、何らかの意義があったと考えられるが、その理由は時代が下ると共に、忘れられる。宗教上の理由で、豚や牛を食べてはいけないことは、動物愛護の考えから起こったのではないだろう。

 

これらの社会的規制に対して、一般的人間は何の疑問も持たずそれに従っている。女性が差別に対して抗議した場合に、大きな抵抗に合うので仕方なく慣習に従う場合と異なり、何の疑問も抱かず、習慣を守っている場合が多いのだ。

 

日本人の従順さは、それが社会の摩擦を少なくするためと言うよりも、単に、身の保全を狙った結果に過ぎないのではないか。

 

公益財団法人橋本財団 理事長、医学博士橋本 俊明
1973年岡山大学医学部卒業。公益財団法人橋本財団 理事長。社会福祉法人敬友会 理事長。特定医療法人自由会 理事長。専門は、高齢者の住まい、高齢者ケア、老年医療問題など。その他、独自の視点で幅広く社会問題を探る。
1973年岡山大学医学部卒業。公益財団法人橋本財団 理事長。社会福祉法人敬友会 理事長。特定医療法人自由会 理事長。専門は、高齢者の住まい、高齢者ケア、老年医療問題など。その他、独自の視点で幅広く社会問題を探る。
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