皆さんはアダプティブ・サーフィン(Adaptive Surfing)という競技をご存知でしょうか。一言で言うなら、障害者が行うサーフィンのことです。残念ながら、今年の東京パラリンピックでは、採用されません。(“オリンピック”では実施)しかし、4年後の開催地のパリでは、採用が期待されています。
このアダプティブ・サーフィンのAS-5(パドルアウトに補助が必要で立てないサーファー)というクラスで、2017年の世界選手権で4位に入るなど、日本の第一人者として活躍されているのが、藤原智貴氏です。10年前、頸髄損傷という大怪我を負うまでは、岡山県初のプロサーファーを目指していました。“パリ”を目指す一方で、この競技の認知向上のみならず、障害者にとってのバリア解消を、機会あるごとに訴え、さらには「ユニバーサルビーチ」の実現にも奔走されています。健常者と障害者、その両方の気持ちが理解できると仰る藤原氏に、お話を聞きました。
小学生の頃は柔道、中学・高校では卓球一筋。高校は強豪校でしたが、最高成績は県大会での準優勝で、国体もインターハイも出場は叶いませんでした。
卒業後、実業団からの誘いも受けたのですが、母が闘病中のため、岡山を離れることが出来ずに断念。地元の企業で営業職に就きました。それからは、スノーボードに熱中していました。
そんなある日、25歳の頃に出会ったのがサーフィンです。最初は、あっさり打ちのめされました。まったく何も出来なかったのです。とにかく悔しくて、その無念を晴らそうと、サーフィンにのめり込んでいきました。やがて大会にも出場するようになり、30歳の頃からは岡山県代表で全日本選手権にも出場するくらいになっていたのです。
一方で仕事は、念願でもあった料理人の世界へ挑戦しようと、25歳で脱サラし、修業を始めました。そして、32歳で自分の店を持ちました。ランチ営業はせず、夕方からの開店に……店が終わってから海へ行き、昼頃に帰ってくるという生活だったのです。
やがて、岡山で初めてのプロサーファーというのが目標になり、その準備を始めていた矢先に大怪我をしてしまいました。鳥取の石脇海岸でライド中、浅瀬に頭から落ち、頚椎粉砕骨折。つまり頸髄損傷という重傷を負ってしまったのです。サーフィンのライド中にこの怪我を負うと、それは、ほぼ死に直結するというのが常。ところが、僕は幸運でした。最初は俯せで浮かんでいたのが波の力で仰向けになり、さらに、いつも一人で海に出ることが多い私には珍しく、その日はスクールの講師をした後だったので、その生徒たちが助けに来てくれたのです。
手術後、1〜2日で、手を動かせるようになりました。しかし、そこから進まない。脇のラインから下の自由を失い、握力はゼロで、手首は多少動くかなという状態。医学的に言えば、「C6B3、四肢麻痺、要介助」という障害だそうです。ただ、それを告げられた時も、不思議と落ち込むことはなく、自暴自棄になるようなこともありませんでした。スノーボードをしていた時、何度も骨折していましたから、「怪我は治るもの」という認識があったのです。
また、鳥取の病院から岡山へ移ろうかという直前には、肺塞栓を発症し、10分間もの心肺停止に。この時ばかりは、家族にも「覚悟を」と告げられたようですが、何とか持ちこたえ、脳に後遺症もありませんでした。
岡山に帰ってからは、1年以上ものリハビリ入院が続きました。よく、「リハビリは、大変だったでしょう」と聞かれますが、高校の部活で体験したキツい練習に比べれば、全く苦になりませんでした。理にかなった真っ当なメニューですから、意欲的に取り組むことが出来たのです。
そのうちに、これ以上は動かないという現実を受け容れることが出来るようになっていったのです。その一方で、それなりに何かスポーツをしたいという想いも募ってきました。ネットで調べていくうちに目に留まったのが、私と同じ怪我を負いながら、アダプティブ・サーフィンで活躍しているアメリカのジェシー・ビラウワーというライダーです。
「これだ!」と思いました。退院したら、挑戦したいなと思うようになっていきました。
ただ、家族には言い出せず、まずは、いろんなパラスポーツを見て回ることから始めたのです。ただ頸髄損傷は、かなり制限が厳しくて、例えば車椅子バスケなどは出来ません。可能なのは、卓球やアーチェリーなどですが、卓球は「今は、いいかな…」という想いがあり、アーチェリーも性が合わない感じがして、結局サーフィンしか残りませんでした。
ただ、やっぱり自分からは家族には言い出せなかったんです。でも、以前からのサーファー仲間が、「また始めよう」と熱心に誘ってくれて、家族にも、僕の想いを伝えてくれたのです。そうして、準備を始めて再び海に入れたのは、怪我をしてから約2年後。今から、8年前の冬でした。
再び海に入ることが出来た日、僕は怪我をしたけれど、また、こんなに素敵な仲間たちと一緒にサーフィンができる。そして何人かは涙を流して喜んでくれている。それが、とにかく嬉しかったことを覚えています。
それから、しばらくは、年に数回のイベントのような感覚で楽しんでいただけでした。勿論、海外では各地で大会があるのは知っていましたが、そこに出場するという気持ちはなかったのです。ところが、2015年に世界大会が開催されることが決まったことを知り、「これは、もう出るしかない」となってしまって…。それで、意思表示はしたのですが、日本サーフィン連盟が、「初めての大会なので、様子を見る」ということで、参加が叶いませんでした。その翌年も、発表が直前となったため準備が間に合わず断念。ようやく2017年と翌18年、アメリカのサンディエゴで開催された世界大会に参加しました。
結果は、2017年の4位が最高(2018年は7位入賞)。でも、そこでの手応えから、パラリンピック出場という目標が出来ました。今年の東京でサーフィンが採用されたのは、オリンピックのみ。しかし、4年後のパリでは、パラでも何とか採用されるよう、世界中のアダプティブ・サーファーが動いているので、期待しつつ頑張っていきたいと考えています。
ここでどうしてもお伝えしたいことがあります。僕がこうしたプロサーファーとしての競技生活を続けるためには、常にサポートが必要です。そんな僕に惜しみないサポートをずっと続けてくれる昔からの仲間、本当に感謝しかない。ありがとう。
(憧れのジェシー・ビラウワーと)
世界大会に参加して感じたのは、その盛り上がりの凄さ。観客も多い。何より、外国チームのスタッフの充実ぶりに圧倒されました。そして、寂しかったのは、外国チームのスポンサーに、多くの日本企業が名を連ねていることでした。それは、外国では障害者スポーツが完全に文化として根付いていることの証でもあるでしょう。
翻って私たちは、支援して下さる企業を探して、自ら資料を作り、訪問して歩くというのも重要なミッションです。特に、私の場合、一人では海に出ることができず、必ず二人の介助者が必要なため、交通費も宿泊費も、3人分掛かってきます。さらに、海外の大会とかになると、仕事を休んでもらうなど、日程の調整も大変というわけです。
もう一つ、アメリカは弱者に優しい社会であることを痛感しました。日本で、私たちが移動するとなると、まず、多目的トイレがどこにあるか。施設なら、バリアフリーであるかどうかの確認が、最優先事項になります。ところがアメリカは、そういったハード面を心配する必要がない。加えて、“人”のサポートも素早い。躊躇とか、迷いがないということでしょう。
日本では、「障害者を街で見かけない」という声をよく聞きます。でも、それは、障害者が出歩けるような街ではないからです。それが証拠に、ショッピングモールなど、施設が整ったところには、大勢の障害者がいる。観光地やアクティビティだって、障害者は行きたくても、行けない事情があるわけです。
最近、多目的トイレや、障害者用の駐車スペースなども、カタチとしては整備されてきました。でも、それが文化として馴染んでいない。多目的トイレも、おむつ交換用のベッドが倒れたままだと、車椅子から立ち上がれない私達にとってはお手上げです。中に入ることは言うに及ばず、それを起こすことさえも出来ません。また、駐車場で言えば、僕は自分でクルマを運転していますが、その状態では、外から障害者であることが判別できないからでしょうか、凄い形相で睨まれたり、中には「そこへ駐めるな」と声を荒げる方もいらっしゃいます。折角、勇気をもって注意を促そうとしている方に申し訳ないのですが、その辺りも、もっと障害者のことを知ってもらうことが必要なのでしょう。
ところで、ある時、支援学校で講演した際に、そこの生徒さんの全員が、海に入ったことが一度もないというのです。山奥の学校でもないのに一度もない‥。その子たちは海岸の砂の感覚とか、海水がどれほど塩っぱいとか知らない。これは、一大事です。
岡山には、渋川という美しいビーチがあります。しかし、ここの海水浴場は、せっかく整備されたのにスロープすら無くて、遊歩道にも海岸にも、車椅子では降りることができません。そこで、ここを何とかアメリカのビーチのように、誰もが楽しめるユニバーサルビーチに出来ないかと考え、玉野市長をはじめ、各所に働きかけて、イベントを開催する企画を進めています。
ビーチマットを敷いて、車椅子でも波打ち際まで行ける。水陸両用の車椅子を貸し出して、海水に浸かることもできる。海って、絶対に癒されるし、不思議なパワーを感じられる場所です。それを、何とか、先述の支援学校の生徒さんはもちろん誰しもが体感出来るようになったらいいなと考えているのです。
(2018年世界大会を仲間と共に)
※2020年3月より、「アダプティブ・サーフィン」は「パラ・サーフィン」に競技名が変更になります。
研究助成 成果報告の記事を見る
小林 天音の記事を見る
秋谷 進の記事を見る
坂本 誠の記事を見る
Auroraの記事を見る
竹村 仁量の記事を見る
長谷井 嬢の記事を見る
Karki Shyam Kumar (カルキ シャム クマル)の記事を見る
小林 智子の記事を見る
Opinions編集部の記事を見る
渡口 将生の記事を見る
ゆきの記事を見る
馬場 拓郎の記事を見る
ジョワキンの記事を見る
Andi Holik Ramdani(アンディ ホリック ラムダニ)の記事を見る
Waode Hanifah Istiqomah(ワオデ ハニファー イスティコマー)の記事を見る
芦田 航大の記事を見る
岡﨑 広樹の記事を見る
カーン エムディ マムンの記事を見る
板垣 岳人の記事を見る
蘇 暁辰(Xiaochen Su)の記事を見る
斉藤 善久の記事を見る
阿部プッシェル 薫の記事を見る
黒部 麻子の記事を見る
田尻 潤子の記事を見る
シャイカ・サレム・アル・ダヘリの記事を見る
散木洞人の記事を見る
パク ミンジョンの記事を見る
澤田まりあ、山形萌花、山領珊南の記事を見る
藤田 定司の記事を見る
橘 里香サニヤの記事を見る
坂入 悦子の記事を見る
山下裕司の記事を見る
Niklas Holzapfel ホルツ アッペル ニクラスの記事を見る
Emre・Ekici エムレ・エキジの記事を見る
岡山県国際団体協議会の記事を見る
東條 光彦の記事を見る
田村 和夫の記事を見る
相川 真穂の記事を見る
松村 道郎の記事を見る
加藤 侑子の記事を見る
竹島 潤の記事を見る
五十嵐 直敬の記事を見る
橋本俊明・秋吉湖音の記事を見る
菊池 洋勝の記事を見る
江崎 康弘の記事を見る
秋吉 湖音の記事を見る
足立 伸也の記事を見る
安留 義孝の記事を見る
田村 拓の記事を見る
湯浅 典子の記事を見る
山下 誠矢の記事を見る
池尻 達紀の記事を見る
堂野 博之の記事を見る
金 明中の記事を見る
畑山 博の記事を見る
妹尾 昌俊の記事を見る
中元 啓太郎の記事を見る
井上 登紀子の記事を見る
松田 郁乃の記事を見る
アイシェ・ウルグン・ソゼン Ayse Ilgin Sozenの記事を見る
久川 春菜の記事を見る
森分 志学の記事を見る
三村 喜久雄の記事を見る
黒木 洋一郎の記事を見る
河津 泉の記事を見る
林 直樹の記事を見る
安藤希代子の記事を見る
佐野俊二の記事を見る
江田 加代子の記事を見る
阪井 ひとみ・永松千恵 の記事を見る
上野 千鶴子 の記事を見る
鷲見 学の記事を見る
藤原(旧姓:川上)智貴の記事を見る
正高信男の記事を見る
大坂巌の記事を見る
上田 諭の記事を見る
宮村孝博の記事を見る
松本芳也・淳子夫妻の記事を見る
中山 遼の記事を見る
多田羅竜平の記事を見る
多田伸志の記事を見る
中川和子の記事を見る
小田 陽彦の記事を見る
岩垣博己・堀井城一朗・矢野 平の記事を見る
田中 共子の記事を見る
石田篤史の記事を見る
松山幸弘の記事を見る
舟橋 弘晃の記事を見る
浅野 直の記事を見る
鍵本忠尚の記事を見る
北中淳子の記事を見る
片山英樹の記事を見る
松岡克朗の記事を見る
青木康嘉の記事を見る
岩垣博己・長谷川利路・中島正勝の記事を見る
水野文一郎の記事を見る
石原 達也の記事を見る
野村泰介の記事を見る
神林 龍の記事を見る
橋本 健二の記事を見る
林 伸旨の記事を見る
渡辺嗣郎(わたなべ しろう)の記事を見る
横井 篤文の記事を見る
ドクターXの記事を見る
藤井裕也の記事を見る
桜井 なおみの記事を見る
菅波 茂の記事を見る
五島 朋幸の記事を見る
髙田 浩一の記事を見る
かえる ちからの記事を見る
慎 泰俊の記事を見る
三好 祐也の記事を見る
板野 聡の記事を見る
目黒 道生の記事を見る
足立 誠司の記事を見る
池井戸 高志の記事を見る
池田 出水の記事を見る
松岡 順治の記事を見る
田中 紀章の記事を見る
齋藤 信也の記事を見る
橋本 俊明の記事を見る